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自家製すだちピールのケーキ_c0354173_14564062.jpg




めずらしい、完熟のすだちをいただきました。
てんさい糖をつかってピールをこしらえたので、ケーキに焼き込みました。
有機紅茶葉とくるみもあわせて焼きました。
独特の香りがあります。

白あんを炊いたのでゆずジャムとあわせて添えています。




# by katatchicafe | 2020-03-10 15:00 | お菓子など

おきりこみオムレツ






おきりこみオムレツ_c0354173_14482624.jpg



小松菜のソースのおきりこみオムレツ。
群馬の名物の太麺のお料理、おきりこみ。
自家製の太麺をチーズオムレツに焼き込んでいます。
粉は群馬の地粉と江別産の小麦全粒粉を合わせ、八塩温泉の鉱泉で練り上げました。
神川産の元気な玉子と無添加のナチュラルチーズのオムレツです。

いつものにんじんの和え物と、鬼石観光ホテルさんのサニーレタスを添えています。
自家製の完熟すだちドレッシングをレタスに。
小松菜のソースにもすだちドレッシングを合わせています。

日曜日限定でお出ししています。
ソースは季節ごとのお野菜でおつくりします。








# by katatchicafe | 2020-03-10 14:55 | お食事





カタチの試行/思考ー3 「浄法寺の根際のバイオリン工房」_c0354173_11514256.jpg





製作と制作
~道具とアートの異なる価値判断~

 2019年9月28日から10月23日まで芸術・茶屋カタチにて「浄法寺の根際のバイオリン工房」と題した展示が行われました。バイオリン製作者の金子斉一郎がこの地に工房を開いたことを機にした、その職人としての仕事の紹介と、美術家渡辺渡によるバイオリンを用いた制作物の展示です。両者は同じものづくりという共通項を持っているように見えますが、基本的なあり方に違いがあります。職人の手仕事とアートのしごとの対比も企画の意図です。
 バイオリンの製作については、その工程がうかがえるように、完成した楽器本体と製作途中の状態、それと材料および道具をあわせて展示しました。楽器製作の在り様を直に見ることができるのは貴重なことだったと思われます。
 とはいえもとより筆者はバイオリン製作に関して門外漢です。それについて専門家のごとく語ることは差し控えるのが賢明でしょう。よって本稿では、おもに渡辺渡による制作物に現れたアートの特性を通じて、職人の手仕事とアートのしごとの違いを考察したいと思います。



*バイオリンの製作

 バイオリンという楽器はすべての部分が音に関与しているつくり(トータル・システム)です。つまり各部分が、よい音を出すという目的にかなったものとして、最適な仕上がりを目指して加工されています。材料(特に木材)は全く同じということがありませんから、その状態を見極めたうえで製作することになります。例えば板の厚みもそれに合わせて仕上げられるので、バイオリンそれぞれで微妙に異なります。そんな職人技の集積であるバイオリン製作は、言うまでもなく音楽を奏でるための道具作りに他なりません。ということは当然ながら製作それ自体が目的ではなく、演奏という別の目的があって、そのために製作しているのです。バイオリンの音=バイオリン+弓+演奏者であり、音楽はそれらの相互作用です。バイオリンは音楽を生み出すための必要不可欠な一角という位置づけです。どれが欠けても成り立ちません。別の言い方をすれば、演奏者だけで、あるいはバイオリン本体のみで音楽が生み出されるわけではないということです。バイオリンは美しい音を奏でることができるよう優秀な職人によって製作された道具(工芸品)であって、それ自体が芸術なのではありません。ですから音楽という芸術の創出に最も適したものとして至ったその形状から逸脱することは原則ありません。伝統が踏襲される理由の一端です。
 つまりバイオリンの存在価値とは、楽器=道具としての価値なのです。ということは壊れたバイオリンはその時点で価値を失っていて、未完成のバイオリンはこれから価値を持つわけです。


*アートの制作

 渡辺渡の制作物は二点。ひとつは《壊れたバイオリンとケースのための再生歌》です。きっかけは金子斉一郎がある日、芸術・茶屋カタチに持ってきた、古い子ども用のバイオリンとケースでした。それらは修理に値しないという理由で放棄されたもので、入れ物や飾りなど何かに使うなら、ということでした。それに対する再生歌として作品は企図されました。しばらく玄関に置いていたのですが、梅雨の時期にカビが生えてしまったので、外に干すことにしました。天日と外気を受けて板が変形しました。職人が音楽のための道具作りとして加工したものが自然に帰りつつあったわけです。
 そのバイオリンはケースに収められた形で、着物生地で作られたクッション、楓(バイオリンの材料となる主要な木)の葉などとともに白い布をおくるみのようにまとって籠に入れられていました。クッションの中身はバイオリン製作時に出る木の削りカスです。金子斉一郎の工房は古民家を改装して開かれたのですが、クッション生地として使った着物はその際そこから出てきたものです──なおこのクッションは金子斉一郎のバイオリンを展示するのに下に敷く枕としても使用されました──。バイオリンのネック部分には包帯が巻かれていて、それは原始機(註1)で織られています。作品から爪を切る音がずっと鳴る仕かけが施されていました。展示会期途中より、かたわらに散文詩的な文章が添えられました。壊れたバイオリンがもたらされた経緯、習い始めた原始機でバイオリンのための包帯を作ったことなどが、自らの心身の健康を害したことと重ね合わせるように語られています。

 もう一点は《家音子》と題され、バイオリンのネックのみが籠の中に、これも白い布をおくるみのようにまとって入っていました。ネックの製作は金子斉一郎に依頼されました。ネックの指板(指で弦を押さえる部分にはられた黒い板)は前述の壊れたバイオリンのものを再利用しています──なので《壊れたバイオリンとケースのための再生歌》の指板があったところに包帯が付いているのです──。《家音子》は、芸術・茶屋カタチの柱に設置される予定です。バイオリンのネックは家の柱とつながることで、家自体を楽器と見立てる象徴的効果を表します。


*アートの特性

 渡辺渡の《壊れたバイオリンとケースのための再生歌》に現れたアートの特性とはいったい何でしょう。それは職人の手仕事の道具的価値判断と異なる、別の価値判断があるということです。道具的価値判断は役に立つこと(有用性)と言い換えることができます。壊れたバイオリンは楽器としては役に立ちません。ということは道具的価値を失っているのです。《壊れたバイオリンとケースのための再生歌》では、そんな無用物がアートとして再生されているわけです。道具としての価値は失ったものの、アートとしての価値をもって再びその存在に光が当てられたといってもよいでしょう。

 アート的価値判断とは、有用性と関係がない、もしくは有用性を相対化するものです。つまり、それが何か別のことの役に立つかどうかと関係なくそこに在る、ということがアートの本質なのです。目的を持ったものや目的そのものを、その外側から見つめる感じといったらよいでしょうか。道具的価値判断である有用性について、役に立つことからさらに別の言い方をすれば、“在る”ということの意義をあくまで目的にかなっていることで認める、ということにもなります。それは世界を素材として見ることにつながります。
 しかし私たちの前にひろがる“在る”ものは、目的にかなったものとしてのみ“在る”わけではありません。本当は多様な質を備えていて、多様な見方が可能なのです。とはいえ私たちは通常、ものから有用性を取り払って“視る”ことに慣れていません。ただ“在る”ものとして“視る”ことは難しいのです。
 アートにはそんな“在る”の見えない部分に光を当てる特性があります。《壊れたバイオリンとケースのための再生歌》の一部であるクッションの中の木の削りカスも、バイオリン製作の過程で出る廃棄物=無用物であり、また爪を切ることも身体の一部を無用物として廃棄する行為であって、それらは有用性を相対化するという点でかなり示唆的です。

 アートの価値判断が有用性の埒外にあるとすれば、いったい役に立つこと以外の、何によってその価値が判断されるのでしょう。それは純粋に形象的なものによって呼び起こされる心の動きによってです。というと、色合いがきれいだとか、仕上がりが上手だとかいったことを思い浮かべるかもしれませんが、それらは情感の戯れ、いわゆる趣味的判断です。それはそれで人の心に快い感情をもたらすので、生活を豊かにする効果があることでしょう。
 しかしアートの価値判断はそういった表層的な地点に留まるものではなく、もっと深いところでなされます。アートの形象は、それが何らかの意味を具現化したものとして鑑賞者の目の前に現れてこそ、その価値を発揮していると言えるのです。意味とは目に見えない抽象的な何かです。それを感じさせ、考えさせるのがアートなのです。

 《壊れたバイオリンとケースのための再生歌》では、添えられた文章が表すような感情や感覚、意味をアートという形象で一瞥のもと知覚されるよう、具現化させています。壊れたバイオリンに包帯を巻いても楽器として再生するわけではありません。作家は再生を土にかえることとしています。有用でも無用でもどちらでもないとすれば、自然を受けてなくなっていくことは再生なのかもしれません。ただ有用性という視座に基づく世界にあっては、その“在る”ということへの共感として、再生の歌が歌われる必要があったのだと思われます。


 アート的価値判断という点で《家音子》についてはどうでしょうか。ネックのみのバイオリンは楽器としての用をなしません。あるいはそのままであれば、これからバイオリンとして完成されるのを待つ部品ともみなせるので、その段階では役に立つ可能性を持っていたということもできます。しかしそれは家の柱に設置されるので、そうなればもはやバイオリンそのものではありません。通常の楽器としての有用性は失われるわけです。
 そのかわり別の“意味”を持つことになります。それは音楽を聴くという行為本来の自由な精神を象徴しているとでもいえましょうか。《家音子》は家が発する音、家にいることで聞こえる音、すべてを音楽として、そこに耳を傾けることを促すからです。このことは、音楽は音階によってのみ構成されなければならないものなのか──という問題を提起しています。なぜなら日常の世界には音階以外の音があふれているにもかかわらず、それらは通常の作曲という意味では役に立たない音(雑音)とされてしまうからです。《家音子》を通して、あたりまえに“在る”音を、あたりまえとして放置しないような姿勢が期待されるのです。それは、そこに“在る”音に対する共感めいたもの──そうしてそのようにあるだけでよいというような──を感じさせます。日常の世界の音を積極的に“聴く”ことで、そこに個々人が新しい意味を発見できるよう導く、すなわち私たちが生きている、その生活世界の見えない部分について意識させ、目覚めさせるものといってもよいかもしれません。


 このように《壊れたバイオリンとケースのための再生歌》も《家音子》も、役に立つことと無関係であり、有用性から離れたときのものの見え方・感じ方の多様性を示しているという点で、アートの特性をつよく反映しています。製作/制作という言葉の意味にそって考察すれば、“製作”とは何らかの物品を作ることで、“制作”は(芸術)作品を作ることです。ですからバイオリンは“製作”されるもの、アートは“制作”されるものです。そして製作とはそれ自体が目的ではありません。目的は別にあります。それはバイオリンの製作について述べたとおりです。古代ギリシアの哲学者アリストテレス(B.C.384-322)が残したとされる言葉ですが、「製作には製作と異なる目的があるが、行為にはそのような目的はないだろう。なぜなら良い行為はそれ自体行為の目的だからである」(註2)というものがあります。アリストテレスがいう行為、人間の直接的な行為だと思いますが、それを(アートの)“制作”のことでもあると解釈したい誘惑を禁じえません。アートを制作することはそれ自体が目的で、制作と目的は分かちがたいものです。アートとは目に見えない“意味”を感覚に訴えるかたちでそこに具現化するものなのですから。

 そして今日のアートの“制作”が“製作”と一線を画するばかりか、ときに“制作”されたものという印象すら持ちがたいことの主な理由は、“手技からの解放”にあるのではないでしょうか。渡辺渡による今回の二作品は、すべてがアーティスト自身の手によって作られているわけではありません。《壊れたバイオリンとケースのための再生歌》の主要部分は廃棄寸前のバイオリンで、《家音子》にいたっては依頼製作されたバイオリンのネックです。これらを“制作”と称することは、以前であれば当然、今日においてもなお、はばかられるかもしれません。それは制作者とされるアーティストが実際に手を使って作っていないことに起因します。繰り返しになりますが、アートとは目に見えない“意味”を感覚に訴えるかたちでそこに具現化するものです。そのためには必ずしも手技を用いなくてもよいのです。アート=モノづくりというのは今となっては誤解で、もしそうなら《家音子》の作者はネックを製作した職人ということになってしまいます。むしろアートがもたらすものの見方が、アートをアートたらしめるのに不可欠であるといってもよさそうです。アートは眼を楽しませる=趣味的判断よりも、ものごとに異なる視点を与え、それを考えさせる方法に関わるのです。それだけ私たち観衆の、作品を鑑賞するという経験が、アートにおいてなくてはならない要素であるともいえます。鑑賞とは観賞(見て楽しむ)だけにとどまらない、作品をよりよく知ろうとし、またその価値を判断しようとする態度のことです。

 渡辺渡のバイオリンを使ったアートと、実物としてのバイオリンを異なるものにしているのは、目に見えない意味であって、見てそれとわかる違いに本質はありません。《壊れたバイオリンとケースのための再生歌》と《家音子》が体現する目に見えない意味を感じ、それがもたらすものの見方について考える、アート的価値判断とは鑑賞的価値判断といってもよいかもしれません。


§



 過日、《家音子》が芸術・茶屋カタチの室内の柱に取り付けられました。木鼻(寺社の柱から突き出たかたちの装飾的な部分)のようでもあります。これを機にタイトルも《中心板と家音子》と改めました。(註3)



*バイオリンの製作 参考文献
園田信博『最上の音を引き出す弦楽器マイスターのメンテナンス:ヴァイオリン ヴィオラ チェロ コントラバス』(2017年、誠文堂新光社)
神田侑晃『改訂 ヴァイオリンの見方・選び方 基礎編‐間違った買い方をしないために‐』(2017年、せきれい社)
神田侑晃『改訂 ヴァイオリンの見方・選び方 応用編』(2018年、せきれい社)

(註1)原始機(げんしばた)は織り機なしで、柱等と織り手の身体を使って織る方法です。
   https://katachino.exblog.jp/30498970/
(註2)アリストテレス『ニコマコス倫理学』(高田三郎訳、上・1971年、下・1973年、岩波文庫)
(註3)改題の経緯については下記を参照してください。
   https://katachino.exblog.jp/30722266/




# by katatchicafe | 2020-03-10 14:11 | レビュー

三月の時間






三月の時間_c0354173_10440263.jpg




三月になりました。

三月より、朝の九時から店を開きます。
今まで通り、日没までです。

開く日は土日のみです。
朝の散策にどうぞお立ち寄りください。







# by katatchicafe | 2020-03-01 10:10 | お店について・鬼石





シロオニスタジオ展覧会評2019-4 使えない──を考える_c0354173_17530000.jpg




使えない──を考える
(工芸とアート、その価値判断の違い)

 2019年11月23日・24日、シロオニスタジオのアーティスト・イン・レジデンス展覧会が十一屋にて行われました。参加アーティストはマヤ・バートレット(オーストラリア)、ソフィー・エヴェライ(イギリス)、テリ・フロン(カナダ)、ローレン・ホットソン(オーストラリア)、ハナ・ボラス・パイアク(オーストラリア)、ヤーラ・パーネス(イスラエル)、ジョージア・プラウド(オーストラリア)、ヘレーン・コンベル・ワイズ(フランス)、ジェス・ウェッブ(アメリカ)と、前回から引き続き参加のマイケル・ルイス・ルブラン(アメリカ)、それにシロオニスタジオ主宰者のキール・ハーン、スタッフのチカ・ワンです。毎年この時期に滞在するアーティストは、山の穴窯(通称千秋窯)を使って陶芸作品を作ります。
 昨年度の展示のレヴューでは工芸と美術の違いについて考察しました(註)。そうすることで、個々の作家の陶芸への向きあい方──その違いを克服しようとしているのか、あるいは工芸(この場合陶芸)の特性を追求しようとしているのか──が見えてくると考えたからです。今回もそこを入口にしてみることにします。なおここでいう美術(アート)とは工芸・デザイン・建築などを含む大きな概念ではなく、絵画や彫刻に代表される造形芸術を指します。
 さてその工芸と美術の違いですが、直截に言えば、“有用性”の有無なのだと思います。つまり役に立つかどうかということです。有用性があるのが工芸で、ないのが美術ということになります。有用性を“使える”と言い換えてもよいでしょう。例えば陶器などは特にわかりやすいのですが、それは日常の暮らしに使うものです。ある器について快い、素晴らしいなどと心が動かされたとします。その価値判断の理由が見た目の好ましさだったとしても、そこには(実際に使用する使用しないに関わらず)利用可能であることが必ず前提としてあるのです。なぜならその器の属性から有用性を取り去って(使えるものだということを忘れて)、純粋にそのような形象として見るということは、それが器であることを知っている以上、とても難しいからです。そこに見出す美しさとは“器としての”美しさなのです。ある器がとても美しいとき、その美とは器であるからこそ導き出された形象ゆえといってもよいでしょう。
 いっぽう美術(アート)から受ける心の動きとは、有用性とは無関係に純粋にその形象から呼び起こされるものです。別の言い方をすると、その感動は使うことによって得られるのではなく、鑑賞という行為から得られるものです。ですから仮にあるアート作品が役に立つもの(日常の品)を使って作られていたとしても、それが使えなくなっている(有用性を放棄している)場合、それは工芸ではなくアート、アートの要件を満たしているということになります。有用性とは異なる“使えないこと”の存在理由、意味の示唆へと向かっているからです。アートはその外観(見た目)を通じて、そこにはない何かを感じさせ、そのことの意味について考えさせる制作された意味なのです。

 今回の作家の出品作について工芸とアートの違いという見地に立ってみていきましょう。ただし筆者は陶芸についての専門的な知識を持ち合わせているとはいえないので、技法や素材に立ち入っての見解や、その道の世界観による審美とははなれた所見であることを断っておきます。

 マヤ・バートレットが製作した器は、全体を《ドロ》と題して、どれも素朴な色合いと簡素な形をしていました。作家は粘土を言語に見立てて、通常の言語では表現しがたい(名づけえない)感情や感覚が現れるものとして、陶芸をとらえているとのことです。この考え方自体は寓意的(アレゴリカル)で、そういう意味ではアートに近いのですが、実際に製作されたそれらは陶芸作品といってよいでしょう。寓意(アレゴリー)とは抽象的なことがらを具体的なイメージを用いて表すことです。もしアートであろうとするなら、作家が思うような表現しがたい感情や感覚が、陶芸的外観を超えたものをともなって表されている必要があるからです。それが成されたときに、その表現しがたい未知の何かはアートとして目の前に立ち現れたことになります。もちろん工芸ではなくアートを志向しているのであればですが。

 ソフィー・エヴェライは11個の容器を製作しました。いずれも手びねりによるもので、その方がより直感的に製作できるためのようです。古代ギリシアやローマのつぼに影響を受けているその形は、女性の体からの着想でもあるとのことです。古代から作り続けられている焼き物=陶芸というものへの関心の反映なのでしょう。

 テリ・フロンはギリシア神話のメデューサを題材として、「メデューサのサンゴ」と「メデューサの石」を陶で作りました。メデューサは髪の毛が蛇の、見た人を石にしてしまう怪物として知られています。神話ではサンゴはペルセウスに首をはねられ退治されたメデューサの血から生まれたとされています。作品の背景には、対面するものを石にしてしまう(すなわち誰とも対話できない)メデューサという存在を通しての、コミュニケーションの困難さという主題がありそうです。またこれらは陶器でもあり楽器でもあります。陶器や磁器が楽器になりやすいというのは想像に難くありません。例えば壺を叩けば打楽器や共鳴胴の効果が得られるでしょうし、大きさを変えて配列すれば旋律を奏でることもできます。作家は音楽についても学んでおり、作品は自ら企画したメデューサを題材にした音と映像のイベントで使用されるとのことです。陶製のサンゴと石は器としてはかなりいびつな形で、彫刻的でもありますが、実は楽器としての有用性を持っているわけです。

 ローレン・ホットソンは《収穫》と題して、陶器と古道具、自然物(藁など)、滞在中に撮った写真を組み合わせたインスタレーションを制作しました。作家は古代文明や一部の原住民のような自然と調和を保った暮らし=文化のあり方に関心を抱いているようです。

  ハナ・ボラス・パイアクは《川石の記憶》と題して小ぶりの陶器を製作しました。そのうち球形のいくつかはわずかに水をはった平らな石の上に置かれていました。作家は自国との自然環境の違いに関心を持って滞在制作に臨みました。はからずも直前に上陸した台風の影響が各地に散見されたことにより、自然への恐れ(畏怖)を特に川の水質、力、流れ等に見出したようです。

 ヤーラ・パーネスは《秘密のシェルター》と題して、いくつもの陶器と古道具を使ったインスタレーションを制作しました。陶器は小さな家を思わせる形をしていて、中に空気を閉じ込めるという試みで開口部を持たない作りになっているようでした。そのことが秘密を抱えることの寓意(アレゴリー)となっています。なので、焼いた時に壊れてしまった陶器は、秘密が漏れて自分の存在基盤が損なわれることの意とも解釈できます。
 別に製作された映像作品にも同様の構造を見出せます。それはフラメンコダンサーが鬼石の各所で踊っている様を映したものでした。滞在の経験をイメージ化したと思われます。この映像は陶芸作品と組み合わせられていたわけではないので、どれくらい関連性があるのかはわかりません。しかし方法論的には共通するものがあるともいえます。すなわちある意味内容(秘密を持つということ/鬼石に滞在した経験)を、別のかたち(空気を閉じ込めた陶器/フラメンコ)で表現するということです。作品の仕組の上ではアートといえます。

 ジョージア・プラウドは女性の体への敬意を陶器に具現化しようとしています。原題の《Embodiment》から推測すると、広く女性性という(目に見えない)性質に形を与えること、つまり化身として表されているものと思われます。そこには陶芸における擬人形態(Anthropomorphism)の歴史を参照し反映させたいという意図も垣間見えます。

  ヘレーン・コンベル・ワイズの陶器はろくろ、手ごね、焼成を経て製作されています。《握る》と題されたそれらは人間の形の反映で、個々に異なる人体の不統一感を出すための手ごねという過程なのだと思われます。
 一方、《熱》と題した映像作品も制作しました。窯の火や草津温泉の湯、ろくろで回転する陶器の分解映像、粘土を握った手などが映し出されます。陶芸に不可欠な火あるいはこの地の温泉という熱を共通項とした自然の応用を、また地域性とその土地の自然を通して、人間と物質の関係に踏み込もうという試みかもしれません。

 ジェス・ウェッブのインスタレーションは人が一人入れるくらいの空間を残して陶器と拾ったものを配し、上から吊るされた何本もの紐には参加者が“今日の感謝”を紙に記して付けるようになっていました。中に入った人はヘッドフォンで音楽を聴けるようになっていて、それはこの地で採集した音をもとに作られています。作品を通して日々への感謝を、瞑想をともなった儀式として形づくろうとしたのかもしれません。

 マイケル・ルイス・ルブランは《共有カップ》と題して、半円筒形の陶器を茶色い紙袋を用いて組み合わせて円筒にしたものを製作しました。ここには同じものを共有、分け合うということへの思い、コミュニケーションの大切さという主張があります。作家は表現の主題として、社会とのつながりを重視しています。それは前回展示の作品も同様なのですが、筆者はそれを日常生活(習慣)に対するアイロニー(皮肉)、一種の反語的表現とみました。しかし今回の作品のことも加味して考えると、作家は世界をそのように斜めに見ているのではなく、むしろ対話やコミュニケーションの重要性を率直に表しているのだと思いました。

 キール・ハーンは今回あえて皿に特化して製作しました。皿は他の器よりも作るのが難しいらしく、より冷静さを必要とするようです。陶芸と向き合ううえでの修行という位置づけでもあったようです。

 チカ・ワンは《土のような記憶》と題して木の枝や布、絵画を組み合わせたインスタレーションを展開しました。基本的には作家が継続しているアートの延長線ですが、作品を鑑賞することとそこでくつろぐことの距離を縮めることをより志向していたように思います。





 今回のアーティストの作品は、映像などの技法的に陶芸ではないものを除けば、半数以上は工芸の範疇にあるように思いました。アートの形式──何らかの意味が感覚に訴えかけて心が動かされるように表されたかたち──に沿って考慮すれば、それがアートである場合、そこに表された意味とは、その形象から純粋に認識される必要があります。前に述べたように有用性とは無関係に、です。ということはたとえそこに意味を感じたとしても、その意味が工芸であることを前提として、そこから導かれたのだとすれば、それはやはり工芸なのではないでしょうか。断っておくと、工芸であることよりもアートであることの方がよいといいたいのではありません。価値の判断が工芸とアートで異なるということであって、筆者の意図も両者の弁別にあります。ですから陶芸を用いて制作されたアート作品の場合も、それがその外観(見た目)を通して、そこにはない何かが感じられて、そのことの意味について考えさせるのでなければ、文字通り意味がありません。陶芸を用いることに必然性がなければ。
 聞いた話ですが、ある漆器作家のことばとして「僕には美しさというものがわからない」というものがあるそうです。そこには工芸が美しさをまとおうとすること、初めから美を求めることが、工芸にとってはたして本来的なのかという問いかけがあるように思います。なるほど、この漆器作家は装飾的な要素を排したどこまでも簡素な、しかしながら美しさを感じざるを得ないような器を生み出します。器なら器という道具としての使うことの喜びを極めた姿を志向しているのかもしれません。そういう意味では工芸の本来的なあり方とは、個性的な作品を作ること(作家個人の主体性の反映)というよりも、より客観的な、必然的に帰結する地点に向かうものといえます。むしろ志向ではなく指向といった方がよさそうです。美は後からついてくると。
 今回多くのアーティストが穴窯での製作について、その制御が困難であることに言及していました。それは仕上がりを予想するのが難しいということです。そしてそのような偶然性や自然の力に完成を委ねることにたいしてむしろ肯定的で、“不完全さ”や“不確定性”というものを積極的に評価していたという印象です。当然ながら陶芸という手仕事は工業化以前の技術です。近代以降、技術(テクノロジー)支配の産業社会が、生命原理というものから遠く隔たってしまっているとすると、生態系=生活世界の一部として成立している技術として、(手仕事としての)陶芸は位置づけられるかもしれません。土と触れ合い穴窯で焼くのであればなおさらです。使うことの喜びを追求するというあり方の一方で、このこともまた主観的態度や自己意識から距離を置くことになるのではないでしょうか。“不完全さ”や“不確定性”は工芸的陶冶の鍵たりえるのかもしれません。




(註)渡辺嘉達「器あるいは物差し~工芸と美術のはざまに~」2019年






# by katatchicafe | 2020-02-29 18:11 | レビュー