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店について







店について_c0354173_15251802.jpg







感染症の蔓延を受けて以後、店を予約制にいたしました。
自分の尺度に立ち返り、ゆるやかに店を開いてゆくことにいたしました。

訪れる方にも、お気兼ねなくお過ごしいただけるよう、ご利用のお時間は貸し切りとなります。
どうぞご理解の上でのご利用を、よろしくお願いいたします。


ご利用の前日までにご予約をお願いしております。
店へは一度につき四人までお入りいただけます。
毎週水曜日と第三月曜日は定休日です。
詳しくは月ごとのカレンダーをご確認お願いいたします。

また、店に猫がいます。
ご容赦くださいませ。
苦手な方や猫アレルギーの方はご注意ください。
人におくびょうな猫です。なるべく見ないふりをしてあげてください。



メニューは こちらをご覧ください。
お食事は季節ごとの野菜でおつくりしています。
できる限り地元産の野菜を中心に、できる限り無農薬栽培の野菜を使用しています。

お店までの道順はこちらをご覧ください。

ご予約はメール、ショートメール、電話にてお受けします。

メール:katachicafe2005(a)yahoo.co.jp
    katachicafe2005(a)softbank.ne.jp
    
いずれも(a)を@に変えて送信をお願いします。

ショートメールと電話(※):080-3315-1765
(電話は作業中で出られない時も多いです。留守番電話にメッセージをお願いいたします。)
(※)セールスのお電話は固くお断りします。


アレルギーや苦手な食材がありましたら、事前にお知らせください。

すべてのお料理、お菓子、お飲み物をヴィーガンでのご提供も承ります。
また、オリエンタルヴィーガン(五葷抜き)対応のお食事もご用意できます。
ご予約の際にお申し付けください。


ご利用の際は必ず前日までにご予約をお願いいたします。
訪れる方が心地よくお過ごしいただけますよう願っております。
何卒ご理解をいただけますように。

どうぞよろしくお願いいたします。











# by katatchicafe | 2023-01-10 10:00 | お店について・鬼石

10月のお店カレンダー







10月のお店カレンダー_c0354173_18113009.jpg


10月の店のカレンダーです。
緑色の点線の〇印のある日はご予約を受けて店を開きます。
前日までにご予約をおねがいいたします。
午前11時から午後5時までです。
印のない日は休みです。

10月末から11月の中ほどまで、「かんな秋のアート祭り Spin-Off 堀越千秋展」の手伝いのため休みます。
昨年につづき芸術監督を務めます。
10月のカレンダーの背景は堀越千秋さんの画集です。




# by katatchicafe | 2024-09-28 18:18 | カレンダー





吉田克朗ははたして世界を見つめる主体としての自分を肯定できたのでしょうか。



なんなん⁈ART 9月ー4週 吉田克朗_c0354173_12584929.jpg





作品から主体(作家)をまったく排除することはできないでしょう。
作品における、否応なく関わらざるをえないものとしての主体の位置づけ、その探求が吉田克朗の平面作品にはあらわれているように思います。

自ら撮影した街の風景写真をもとにした版画作品では、写っているものの一部の版をずらして刷っています。
そのことでそこにある作家の視線を私たちに意識させます。

ものに直に絵の具を塗って紙に転写し、そのものの描画と並置したり。
壁に描いた、というか残された筆跡をカンバスに転写したり。
どうでしょう、制作における作家の関与についてきわめて自覚的な、作品に作家が関わるとはどういうことかの探求といってよいのではないでしょうか。

これら1970年代の制作を通して吉田克朗が鍛え上げてきたこと、それは作品に関わる主体としての作家を透明にしていく作業だったように思います。
透明というのは個性を志向しないといいますか、何か大きなものに委ねて制作するために余計なものをそぎ落とす感じでしょうか。
ものごとの本性、根源的な在り方、原理の層に触れるために、自らもその地平に近づける行為なのかもしれません。

1980年代には《かげろう》と題した抽象画のシリーズを制作します。
風景写真などを参照しながらも「主体的に」描かれている「絵画」です。
その後、亡くなるまで続けられた《蝕》のシリーズは、手で黒鉛をカンバスにこすりつけて、身体を思わせる有機的な形態が描かれます。
主体が顕わなほどに直に関わっているともいえます。
また大画面であるにもかかわらず、何かの一部のクローズアップ(断片)かのようでもあり、絵の外への広がりを感じさせもします。

吉田克朗がこうして「絵画」を描けるようになったのはなぜでしょう。
主体(作家)が統べる作品というあり方ではない、制作における主体の関りがかなったからなのだと思います。
もちろんそこにいたる過程、探求の数々をすべて含んだものとしてその「絵画」はあるのだと思います。

吉田克朗は「もの派」の時期に、「働き」や「状態」や「しくみ」があらわれた根源的なものの「存在性」を志向していたのではないかとしました。
主体(作家)もまたそのように、作品をつくる「働き」や「状態」や「しくみ」になるということ。
存在としてものと等価になったといいますか、何か大きな主体の一部になって描かれたということになるのでしょうか。

晩年の《蝕》は、描かれる有機的形態が、外へ広がるのではなく画面の真ん中に描かれるようになります。
拡がることも集まることも変わりはないのかもしれません。









# by katatchicafe | 2024-09-24 18:00 | なんなん⁈ART






吉田克朗が明らかにしたかった、もの の「存在性」。
そうした作品に作家という主体ははたして必要?



なんなん⁈ART 9月ー3週 吉田克朗_c0354173_17193107.jpg



これは他の「もの派」の作家たちにもいえることですが、吉田克朗のこの頃の作品は、なんだかとてもそっけない、即物的な印象を与えます。
それは隠喩的な読みを誘わないような、物語性や象徴性からできるだけ遠いところに作品をおこうとしたからなのだと思います。
それは前回も述べたように、ものごとの本性、根源的な在り方、原理の層に触れるためという作品のあり方からすれば、誤読を招かないためにも隠喩という迂回は避けたかったのだろうと思います。
(Cutoff には近道という意味もあるようです)
で、ものがそのものでしかないような見え方であるよう、ものに語ってもらうという手法がとられた、と考えることができます。

ですが物語性の回避以上に、ものに語ってもらうことが必要だった理由があるように思います。
ものに語ってもらうことは、それだけ作品から主体(作家)の関りを減らすことでもあります。
この主体の関りの問題が、吉田克朗の芸術にとってはだいじなところなのだと思います。

あたりまえですが作品をつくるということは、作家がつくるということです。
決められた様式に則って作るということもありますが、ここでは「作家性」について考えたいと思います。
作品は作家の考えやものの見方を反映したものという、これは近代以降の芸術のあり様ともいえますが、別の言い方をすれば作家が世界をどう見たかということでもあります。
このことは世界を見る目を作家がどのくらい持っているのかという価値判断につながります。
作品が私たちを惹きつけるその理由は、作家が洞察した世界とそれを表現する卓越性にあるという考え方です。
ひいてはそれが作家の個性(オリジナリティ)であると。
しかしそのことは他とは違うこと、個性の主張へと容易にその目的を転化させかねません。

作家として真摯であるほどに、作家性つまり世界をそのように見る芸術家としての私に疑いを持つものなのかもしれませんし、また吉田克朗が芸術活動をしていた時代の問題意識とも考えられます。
では個性の主張ではない、作家が見た世界とは?







# by katatchicafe | 2024-09-17 17:22 | なんなん⁈ART






吉田克朗はその芸術においてどのような探求を続けてきたのでしょう。
もう少しその構造に分け入って考えてみましょう。




なんなん⁈ART 9月ー2週 吉田克朗_c0354173_14574517.jpg




《Cut-off(chain)》(1969年)は、コンクリートブロックの土台に角材が設置されたものがいくつか並んでいて、それぞれを鎖がつないでいるという作品です。
一見すると立ち入りを制限するためにあるいは仕切りとして張られたかのような体です。
ではいったい何を制限、あるいは仕切っているというのでしょうか。

《Cut-off(hang)》(1969年)は、ロープで斜めに吊られた角材と、床に置かれた石とがその同じ一本のロープでつながれている作品です。
ロープと角材と石はいったい何をしているのでしょう。
ロープは角材を吊るという「働き」をしています。
石と角材をつなぐという「働き」もしています。
角材はロープによって吊られた「状態」にあります。
石もロープで縛られた石という「状態」にあります。
三者はそのような「しくみ」の元に関係しています。
これらの「働き」や「状態」、「しくみ」には何か目的があるのでしょうか。

吉田克朗の作品に登場するものたちは、「人間にとっての」有用性、意味性を外されていると考えることができます。
目的らしいものはなく。
ではそれらのものはまったく無用であって、何の意味もないのかというとそうではありません。
ロープは自身がロープであることの力能(存在するための力)を発揮しているし、角材や石はロープによってある特定の状態にあることで存在を示しています。
ちょっと変な言い方かもしれませんが、それぞれが互いの関係によって「生きて」います。
無駄に見えるのは人間にとって、役に立っていない、意味がないからです。
コンクリートブロックの土台に設置された角材をどうしをつなぐ鎖は、ただ仕切るために仕切っているのかもしれません。
純粋に機能を発揮しているといいかえることもできるでしょう。

《650ワットと60ワット》(1970年)はコードの先の二種類の電球が上下で向い合せられている作品です。
650ワット、60ワット、どちらの電球も照らすという機能をただ純粋に発揮しています。
(照度が高い方がエライというわけではなく)
もちろん日常生活において、電球が部屋を照らしても、手元を照らしても、その機能が発揮されていることにかわりはありません。
しかしものごとの本性、根源的な在り方、原理の層は生活の中で見えなくなっています。
そのように慣性化した知覚を Cut off して、「働き」や「状態」や「しくみ」があらわれた「もの」を見ることで認識できるレヴェルを、吉田克朗は志向していたのではないかと思います。
ものが「ただ在る」のを「見る」努力でしょうか。

ものが「ただ在る」のは何もしていないということではありません。
生きている、活力をもって存在しているということです。
吉田克朗の作品では、ものとものとが互いの関係づけを通して何らかの変化をみせます。
(変化というと大きなもののように思われるかもしれませんが、見かけ上大きく変容しているわけではありません)
その変化がそのものの本質に由来するような変化を見せる場合、相手(他のもの)から受ける力に由来する感応としてあらわれる場合、あるいはその混合といったぐあいに、ものの顕れ方は一様ではありません。
しかし目指しているのは、ものとものとの出会いとその変化が互いの力能・活力を損なわない、むしろ生かされるような関係であるように思います。
ものが本来持っている「在る」ための力。
吉田克朗が明らかにしたかったのはものの物質性というより、ものの「存在性」だったのではないでしょうか。














# by katatchicafe | 2024-09-10 18:57 | なんなん⁈ART




埼玉県立近代美術館で吉田克朗(1943ー1999年)の回顧展が開催されています(9月23日まで)。
吉田克朗は「もの派」を代表する作家の一人として知られています。
しかしいわゆる「もの派」らしい作品はその美術家人生の一部で、むしろ絵画を中心とした平面作品において芸術探求を続けていたといってよいでしょう。



なんなん⁈ART 9月ー1週 吉田克朗_c0354173_20094770.jpg




「もの派」は1960年代末にあらわれた芸術の動向で、作家がほとんど手を加えずにものをそのまま提示する作風から、いつの間にかそう呼ばれました。
(なので、「派」といっても意志的に集団活動していたわけではありません)
吉田克朗の作品でいえば、大きな紙の四隅に石を置いた作品(《Cut-off(paper weight)》(1969年))、角材の上に数枚の鉄板がのせられた作品(《Cut-off No.2》(1969年))などです。

「もの派」の時期の作品について考えてみましょう。
立体作品のほとんどに「Cut-off」という題名が付けられていることから、吉田克朗にとって「Cut-off」という語が鍵概念であることが推察されます。
(「もの派」以前の初期の、実物大で作った階段や電話ボックス、あるいは実物の机を半分に切断した作品にも、《Cut》あるいは《Cut-off》が使われています)
なぜ「Cut-off」なのでしょう?
Cut off、つまり切り離す、切断する、中断する、遮る……。
作品を観ると、どちらかといえば切り離すより、(ものとものを)関係づけているという印象です。
では、何を何から切り離したい、遮りたいというのでしょうか。

思うに、ものごとの本性を、慣性化した知覚から切り離したい、そしてそのことを顕わにしたいということなのかと。
言い換えると、生活の中で見えなくなっているものごとの根源的な在り方、原理の層に触れたいというような。
そしてそれを伝えたい、あらわしたい。 
ところが日常に埋もれてしまっていて見えないということは、そもそもそこに潜在的な意味のようなものがあることすら私たちは気づいていません。
それを見えるように、感じられるようにするには、何らかの手続きが必要です。

その手続きが「もの派」の方法なのでしょうか。
物質性が際立つようにものをしつらえるというのが「もの派」の作法と理解されているようです。
角材の上にのせられた数枚の鉄板は、それぞれの厚みの違いから、異なったたわみ具合を示します。
鉄管の中に綿をつめこんだ作品(《Cut-off》(1969年))は、互いの物質性の違いが強調される組み合わせです。
(あからさまなものの露呈という印象が強いがゆえに、「もの派」の呼称をもたらしたのでしょう)
しかし初期の作品が実際に切断することから「Cut-off」なのはそうとしても、その後の「もの派」的展開にも同じ「Cut-off」概念が使われていることを考えると、吉田克朗のなかでは何か一貫した思考があったのだと思われます。
物質性を際立たせるというのは作品の一側面として理解しておきたいところです。
では物質性以上に吉田克朗が明らかにしたかったことは何だったのでしょう。

(来週に続きます)




# by katatchicafe | 2024-09-03 20:10 | なんなん⁈ART