2023年 01月 10日
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店について
感染症の蔓延を受けて以後、店を予約制にいたしました。
自分の尺度に立ち返り、ゆるやかに店を開いてゆくことにいたしました。
訪れる方にも、お気兼ねなくお過ごしいただけるよう、ご利用のお時間は貸し切りとなります。
どうぞご理解の上でのご利用を、よろしくお願いいたします。
ご利用の前日までにご予約をお願いしております。
店へは一度につき四人までお入りいただけます。
ご予約はメール、ショートメール、電話にてお受けします。
メール:katachicafe2005(a)yahoo.co.jp
毎週水曜日と第三月曜日は定休日です。
また、店に猫がいます。
ご容赦くださいませ。
苦手な方や猫アレルギーの方はご注意ください。
人におくびょうな猫です。なるべく見ないふりをしてあげてください。
メニューは こちらをご覧ください。
お食事は季節ごとの野菜でおつくりしています。
できる限り地元産の野菜を中心に、できる限り無農薬栽培の野菜を使用しています。
お店までの道順はこちらをご覧ください。
ご予約はメール、ショートメール、電話にてお受けします。
メール:katachicafe2005(a)yahoo.co.jp
katachicafe2005(a)softbank.ne.jp
いずれも(a)を@に変えて送信をお願いします。
ショートメールと電話(※):080-3315-1765
(※)セールスのお電話は固くお断りします。
アレルギーや苦手な食材がありましたら、事前にお知らせください。
アレルギーや苦手な食材がありましたら、事前にお知らせください。
すべてのお料理、お菓子、お飲み物をヴィーガンでのご提供も承ります。
また、オリエンタルヴィーガン(五葷抜き)対応のお食事もご用意できます。
ご予約の際にお申し付けください。
ご利用の際は必ず前日までにご予約をお願いいたします。
訪れる方が心地よくお過ごしいただけますよう願っております。
何卒ご理解をいただけますように。
どうぞよろしくお願いいたします。
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by katatchicafe
| 2023-01-10 10:00
| お店について・鬼石
2024年 03月 12日
なんなん⁈ART 3月ー2週
猫を膝にのせて考えた芸術のこと その四
美を感じることは「負ける喜び」なのでしょうか。
作家の橋本治は「“美しい”と感じることと、“敗北感”はどこかで関係があるのではないか?」と書いています。
「あんまり“美しい”を感じすぎると社会生活が出来にくくなっちゃうから困る」と思っていたそうです。
「美しいがわかる人」は敗者あるいは弱者で、勝者あるいは強者であるには「美しいがわからない」を選択しなければならない、そういう世の中だと。
(「美しいがわかる人」橋本治はそう考えます)
先週、美について、あいての「在るがまま」への共感や理解が勝手に働いてしまってる感じ、と書きました。
「なんだかわからないがよい」の到来に対して、一時的に思考停止になってしまうこと、それは確かに敗北なのかもしれません。
その敗北には二つの面があるように思います。
ひとつは社会で生きる都合上のこと。
思考停止とか何だかわからないとかいった状態は停滞であって、合理的でなく効率も悪いとされるでしょう。
それらが少ない方が優秀な人という印象になりそうです。
もうひとつが思考停止とか何だかわからないとかいった状態そのものが、私たちになんというか到底及ばない「なにか」を感じさせることでしょうか。
「まいったなぁ」とか「かなわんなぁ」とか、「こんな風にあってすごいなぁ」とか「何なんだろう」とか、そういいつつ嬉しいという。
このことは不可避的に人を謙虚にさせることでしょう。
この感じが「美しいがわかる」なのかもしれません。
先週、美を感じることは役に立たない「なにか」に感じる喜び、とも書きました。
人がものごとに心動かされるとき、その理由として、それが自分の役に立つからということがあります。
あるいは反対に、それが自分にとって不利益をもたらすかもしれないということもあります。
つまり利害的興味関心です。
自分に利益をもたらすものと不利益をもたらすものとで世の中のものごとを仕分けしたとしたら、役に立たない「なにか」とはそのどちらでもないものです。
つまり利害的興味関心から外れている。
(これが橋本治のいう「美しいがわからない」でしょうか)
利害とは別に働く興味関心、それが美なのだと思います。
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by katatchicafe
| 2024-03-12 20:22
| なんなん⁈ART
2024年 03月 05日
なんなん⁈ART 3月ー1週
猫を膝にのせて考えた芸術のこと その三
芸術の種=美=負ける喜び?
芸術の種、その中心にあるのは、役に立たない「なにか」に感じる喜び。
で、その喜びを「美」といえば、たぶんそうなのだと思います。
たとえば夕日がきれいだなぁと感じたとき、そこには喜びがあります。
でも、それが直接自分にとって何かの役に立つわけではありません。
もちろん太陽の存在が生命にとって必要不可欠で、だから役に立っているのだ、ということはできるでしょう。
ですが、だからといって夕日のそのありようにしみじみとしたりすることは、はたして生命維持になくてはならないものなのでしょうか。
猫をなんかよいなぁと感じること、それはいったい何の役に?
ネズミを捕ることは、そもそもの猫と人間との共存の一因だったかもしれませんが、いまはどうでしょう。
(捕ってこられて困る場合の方が多いかもしれません)
日頃のストレスを癒してくれるのはありそうです。
猫の動画をSNS にあげると閲覧数を稼げるとか。
でも、よほど自分本位でないかぎり、ストレス軽減や注目を集めることといった「効果」だけを目的に猫と一緒にいるわけではないでしょう。
ひとついえるのは猫にしろ夕日にしろ、こちらのために「よく」あるのではないということです。
それはあいての都合でそのように在るのです。
それを「よい」と感じるということは、そのあいての「在るがまま」への共感、理解、推察が働いている、いやむしろ働いてしまっているといった方がよいでしょうか。
あいての都合への理解、他者の基準の発見がすなわち「美」だとすれば、それは自分の都合、こちらの役に立つかどうかという判断とくらべて、はなはだわかりにくい、こころもとないものです。
「なんだかわからないがよい」がまずやってきてしまって、なぜよいのかの判断に時間がかかる、というかわからないままだったり。
美はどうしようもなくとらえられてしまうもの。
そこで思うのは、美を感じるとは「負ける喜び」みたいなものかもしれない、ということです。
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by katatchicafe
| 2024-03-05 19:58
| なんなん⁈ART
2024年 02月 27日
なんなん⁈ART 2月ー4週
猫を膝にのせて考えた芸術のこと その二
猫が膝にのってきます。
隙をついてのってきます。
隙がなくてものってきます。
(のせて、と言ってきます)
そんなときたいていこちらは「まいったなぁ」という顔をしています。
「まいったなぁ」という顔をしているからといって、本当にまいっているとはかぎりません。
顔ではまいっていても、本当は嬉しかったりします。
でも、「やったぁ、のってくれたぁ!」と膝を叩いて喜ぶ、というのとも違います。
「やったぁ、のってくれたぁ!」は猫を膝にのせるという目的があって、それが達成された喜びでしょう。
「まいったなぁ」の喜びは不意打ちのようなものです。
もちろん、猫が膝にのるのはしょっちゅうなので意外なわけではありません。
といってもいつのるのかは猫都合なのであって、こちらの都合ではないのです。
なんというか、猫が膝にのっているという状況について、猫と(私の)膝が協働して生み出している、みたいな。
そこに自分の都合(目的)で解釈できない「なにか」を感じるわけです。
のりたい猫とのせたい膝の間にある「なにか」。
それを喜びと感じる「こころ」。
そんなこと感じなくてもよい、といえばよいのです。
猫をひざにのせていることに時間をとられていては損だと。
ですが、その役に立たない「なにか」に喜びがある以上、感じた方が「こころ」によいのです。
芸術の種がそこにある気がします。
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by katatchicafe
| 2024-02-27 22:07
| なんなん⁈ART
2024年 02月 25日
苺とホワイトチョコレート
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by katatchicafe
| 2024-02-25 18:15
| お菓子など
2024年 02月 25日
3月のお店カレンダー
3月の店のカレンダーです。
緑色の〇印の日、日曜日は店を開いています。
点線の〇印の日は、ご予約を受けて店を開きます。
ご利用の前日までにご予約ください。
時間は午前十一時から午後五時までです。
印のない日、水曜日と18日月曜日は休みです。
ハコベの花が咲き始めました。
山の色も春色になってまいります。
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by katatchicafe
| 2024-02-25 09:41
| カレンダー