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9月20日(金)・21日(土)・22日(日)の3日間
鬼石の十一屋にて「かんな秋のアート祭」が催されます。

シロオニスタジオの海外からの鬼石滞在アーティストの作品、
故・堀越千秋氏の作品、地域のアーティストの作品、
高村木綿子さんのワークショップによる鬼石小と神泉小の皆さんによる作品と
沢山の作品が並ぶ展覧会があります。
この機会にぜひご覧ください。
カタチの渡辺渡も出品いたします。


また、カタチは20日(金)・21日(土)の二日間
会場の十一屋にてカフェをいたします。
コーヒー、おやつとカレーもご用意いたします。
展覧会の合間に、木々を眺めながらお休みいただけましたら幸いです。

22日は沢山のお店が会場に出店してにぎやかになります。
(※22日、カタチは出店しません。)
お茶会やアーティストによる作品解説もあります。
夜には交流パーティーがあり、どなたもご参加いただけます(中学生以上有料です)。

秋の休日、どうぞ皆さんでお出かけください。
※9月20日から22日まで、鬼石のカタチの店はお休みとなります。

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かんな秋のアート祭
9月20日(金)ー22日(日)
11時-17時
(最終日のみ20時まで)
会場:十一屋(アートと花の広場)
群馬県藤岡市鬼石108-2









# by katatchicafe | 2019-09-14 13:00 | お知らせ






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カタチでの展覧会のお知らせです。

今年浄法寺の根際に金子斉一郎さんがバイオリン工房を開きました。
その繊細な仕事をご覧いただく展覧会をいたします。
この機会にぜひご覧ください。
会期末にはご夫婦のデュオによる演奏会もあります。

バイオリンを見て聴いて味わう、よいひと月となりますよう。


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浄法寺の根際のバイオリン工房

2019年9月28日(土)ー10月23日(水)
正午から日没まで 木・金曜休み

〇演奏会
10月20日(日)14時開演
カタチにてご予約を承ります。
定員20名












# by katatchicafe | 2019-09-14 12:12 | 展示






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まわり道を通って


 2019年7月27日・28日、シロオニスタジオのアーティスト・イン・レジデンス展覧会が十一屋にて行われました。

 様々な国のアーティストが滞在制作した作品を目の当たりにできるのはとても有意義なことです。なぜなら今日のアートの状況の一端を通じて、アートについての考察──特にどうしてアートが存在するのか、なぜアートでなければならないのか──を深めることができるからです。そのような思考がアートとは何なのかを知ることにつながるのだと思います。
 「見えるものを通じた見えないものの提示」、それがシロオニスタジオ展覧会をはじめ、今まで見てきたアート(およびアートに関する言説)によってもたらされた、少し大げさですが、筆者のアートの定義です。この定義について考えることで、アートでなければならない理由、すなわち他の表現方法と比べて、アートは何が独自なのかということの理解を助けることになるのではないかと思います。
まず言えるのは、アートが視覚を通じて受容する、目に見えるものだということです。そういう意味で音楽や文学とは異なります。しかし日常目にするあらゆるものや光景も目に見えるものですから、それだけだとアートとは区別がつかないことになってしまいます。普段私たちはものを見るとき、なんとなく、それも外見だけしか見ていません(知覚の慣性化)。それが何であるかひとつひとつ細かく見ていては日常生活が滞ってしまうからです。よく見るということをする場合も、たいていは必要があってそうするのであって、何の目的もなく見ることはまれです。いってみればそれを役に立つものかどうかで見ているわけです(世界の素材視)。世界にあるものや光景といった目に見えるものを、消極的に見ているといってもよいでしょう。それだと目に見えるものの理解は表層的にならざるを得ません。目に見えるものの中に見えにくくなっている、もしくは見えない真実があって、それを積極的に“視る”ことを通じて意識させる存在、それがアートなのだと思います。
 隠れた真実や不可視の真実といってもその見えなさは様々です。ここで詳しく述べることはしませんが、例えば社会の見えにくい仕組み、抑圧された心理、見過ごされがちな何気ないものごとの価値、表現の隠れた可能性、それが存在することの不思議さ、アートとは何かという問そのもの──などを挙げることができましょう。
 指摘しておきたいのはそれらの見えないものが、アートによって“外見的に”見えるようになるわけではないということです。作品はあくまで見えないものの存在をほのめかす、示唆するのであって、その示唆を通じて見えないものの領域へ私たちを誘うのです。それを可能にする物理的形態をもった作品がアートなわけです。
 ということは私たちはそのアートが指し示していることについて“推測”する必要があります。というのも作品に表れている見えないものの示唆は、“見慣れない”外見によって示されている可能性が高いからです。たとえひとつひとつの構成要素が見慣れた知っているものだったとしても、それらは“見慣れない”仕方で提示されているに違いありません。
“見慣れない”ということは、それが何なのかを理解するために、立ち止まって考えなくてはならないわけで、積極的に“視る”ことが求められます。日常生活における見ることに比べて随分と遠回りと言えます。ですがこれこそがアートの存在意義なのです(日常的な知覚の志向が短距離的だとすれば、アートによる知覚は迂回的連想です)。“見慣れない”という非日常化は、「見えるものを通じた見えないものの提示」のための方法論なのです。

 今回のアーティストたちはどれくらい「見えるものを通じた見えないものの提示」に迫ったのか、それぞれの展示からうかがえるでしょうか。みていきましょう。


 アメリカ出身のエリース・バーンバウムは陶の器をたくさん作り展示しました。器といってもその多くが非対称で歪みをもった曲線的な形状でした。それらの有機的なかたちには日本庭園に見られるような木々からの影響があるようです。庭木の手間がかけられた造形性、(植物を扱うという)素材と制作過程の不確実性は、陶芸に共通するものです。思った通りにはいかない部分とは、思いがけない部分でもありますが、それを作品にとっての積極的な要素としています。展示のしかたも、作品が白色を中心としたモノトーンなこともあって、軽やかで落ち着いた印象でした。作家はインテリア雑貨のブランドでディスプレイの仕事をしているので、その点にたけているのでしょう。生活空間の細部に美意識を働かせることで、暮らしを審美的に高次のものにすることを志向しています。

 アメリカ在住のクリスティン・チャは灯篭の絵、庭木の絵、イカの形の板に彩色したもの、人が座れるくらいの大きさの箱型の作品(五つの色が帯状に塗られたもの、白い箱の上に緑色の輪がいくつかのせられたもの)を出品していました。イラストレーター、商品デザイナーらしく、どれもが明るい色彩と単純化された形態によって、親しみやすい表現となっていました。作品は子供たちとの交流を含めた滞在中の経験をフィードバック、謝意を表すことが目的であって、見ている人たちを楽しませるためのものです。
 なお、緑の輪がのった白い箱状の作品について、筆者は当初、“見慣れない”謎めいたものを感じていました。しかし他の人からの指摘でそれが豆腐(冷奴)を模したものだと分かりました。そういえば箱の下部と床の間に黒い雲型のシートが何かの影のように挟んであったのですが、それは醤油のことだったわけです。

 オーストラリア出身のロマニー・ファイラルはラメのようなキラキラした素材を絵具に混ぜて、絞り出しの要領で描いた装飾的な印象の絵画を出品していました。それらは鬼石の自然の中に見出した様々なパターンや色彩といった特質と、自分がそれに接したときに触発された感情との融合を、そしてその仕方が新たな有機体組織としての成長を印象づけられるような表現を目指しているようです。自然環境はオーストラリアとは大いに異なると思われます。そこで感情がどのように刺激されるかは個人的かつ直観的なもので、滞在中の体験の一回性が強く反映されると言えます。

 オーストリア出身のアニタ・グラッツァーは卓越した技術で紙を縫製して作った衣服を三点出品していました。紙といってもそれぞれの素材は、歌舞伎の台本、絹商人の在庫元帳、石の商人の帳簿で、いずれも古いもののようです。よってそれらの衣服は筆文字をまとうといった印象です。帳簿類は当時の経済活動の生々しさを、歌舞伎の台本(「恋娘昔八丈」)はそれが描く物語の情念を内包しているようで、紙という素材以上のじっとりとした重みを感じさせる作品となっていたように思います。労作です。
 作家の活動の中心は写真と手描きを融合させた表現で、そちらも手の込んだものなので、今回の作品によってその多才ぶりを発揮しています。写真という媒体は被写体をその一瞬に閉じ込める技術ということができます。確かにその時そこに在ったという証明のようなものです。それは一見、生の刻印のようでいて、それと同時にそこから既に喪失が始まっているのです。撮られたその像と同じものはもう存在しない──死んでいるのです。そう思うと今回の作品についても、人の痕跡から転じてその不在を意識させるもので、一貫したテーマがあるように思います。「メメント・モリ(死を想え)」でしょうか。

 シンガポール出身のケン・ラムは墨で描いた絵と、同じく墨で描いた書、それにデジタル・プリントの絵画を組み合わせて展示していました。墨の絵二点は鳩と蚊を戯画調で描いており、それぞれが自分にとって好きな存在と嫌いな存在とのことです。これらは何かの隠喩(メタファー)であるというよりも、そういう自分の感情の表現であり、描くことでそれらを浄化することを意図しているようです。デジタル技術で作成された二点も戯画・幻想画的で、墨の絵と対応しているように見えます。作風はシュルレアリスム(超現実主義)をおもわせるところがありますが、シュルレアリスムが隆盛だったころ(1920年代)にはなかったデジタル表現と手描きを並列させ、またそのことがなんら構えたところを感じさせない──等身大であるところが今日性を感じさせます。作家はファンタジー(幻想)を通した世界の理解を目指しているようなので、その点でもシュルレアリスムと共通する部分があるかもしれません。そう考えるとこれらの絵画作品の両脇に掲示されていた書を思わせる作品が、実際には文字を綴ったものではなく、筆の走り書きであることは、シュルレアリスムが無意識あるいは潜在意識の表出のための技法として採用したオートマティスム(自動現象/自動記述)を思い起こさせます。意識していないかもしれませんが。

 アメリカ出身のエリン・マッケンナは滞在中に初めて接することとなった日本の暖簾からの影響を作品化しました。再利用した古布をつなぎ合わせて大きな二枚の布として、それぞれを暖簾状に吊るしました。作家は暖簾というものについて、それが空間を仕切ることで境界ができて、向こう側への関心を誘うと考えました。この大きなNORENが地域の人たちの協力でつなぎ合わされたこと、鑑賞者がそれをくぐることで作品が意味を成すことは、作家の芸術についての考えを反映させたもので、作品がひきおこす身体や物への反応を、動きとしくみのうちに見出そうとしているようです。

 シンガポール出身のブライアン・ウンはコマ撮りのアニメーションを茶室で上映しました。「料理」と題されたその映像作品は、お地蔵様が森から出てきて精進料理を作って食べてまた帰っていくというものでした。調理および食事の過程の合間に自然の風景や季節の移ろいを感じさせる映像をはさむことで、美しい自然の中の人の暮らし、自然と文化の均衡について表現したかったのではないでしょうか。料理やその材料の5色は5つの味覚を表しているようです。

 スコットランド出身のジェニー・テイトは「表面の下に」と題したインスタレーションを展開しました。和紙に包まれた石がいくつも糸で吊るされ、その下には有機的な模様が描かれた陶板が三列等間隔に床に並べられていました。障子への興味からそのイメージを反映させたものとなったようです。もともと光に関心を持っていたとのことで、障子のもたらす光のふるまい方(例えば紙を通したやわらかな光)に触発されたのかもしれません。吊られた石の揺らめく影は偶然の産物でありながら、光の存在を感じさせます。そういったことも含めて、建築空間と美術作品との関係(それも緊張関係)を導き出したかったように思えます。
 それとこの地で石屋さんと呼ばれる造園業の人の話も影響を与えました。庭石の地上に出ている部分と埋まっている部分について、不可視の埋まっている部分が想像力を喚起することに着目しました。視覚の及ばぬ領域を表現しようとする作家の意図は作品タイトルにも表れています。障子や庭石から影響を受けても、それをそのまま作品化するのではなく、一度咀嚼したうえで美術でしかありえないようなかたちとして提示することを試みています。ですから一見して作品のイメージの源泉が何であるのかを理解するのは難しいでしょう。

 中国出身のジャチー・シェは「鬼石太鼓グループ」と題して陶製の鬼のキャラクターを多数作りました。夏祭りを中心とした滞在中の体験を通し、鬼というものへの印象が変化したことを受けて、親しみのあるキャラクターとして造形されたようです。それらの鬼たちは、伝統文化を維持しようという地域の人々への尊敬心の、彼女なりの表明だったようにも思えます。

 シロオニスタジオのスタッフ(今年度のインターン)であるリゼット・トトは大学でデザインを専攻していることを活かして、滞在中の記録をデジタルブックのかたちで、その下には女性の横顔を描いた色紙があわせて展示してありました。赤と白を基調としたデザインに写真はモノクロで、色紙にも書かれていた“ととと”という文字がさりげなく配置されており、全体としてかなりスタイリッシュにまとめられていました。

 同じくシロオニスタジオのスタッフ(今年度のインターン)であるモニカ・シェンは大学で舞台芸術を専攻しているとのことで、屋外でパフォーマンスを披露しました。鞄を手にして目隠しをした女性(本人)と、花の枝を持ち口元を布で覆った男性によるダンスを基調とした動きで、女性は途中寝転がったり、舞台上のものを下へ蹴落としたり、舞台から下りてまた上ったりします。男性はうちわや太鼓を使って終始女性に関わろうとしているように見え、女性の動きはときにいら立っているような印象でした。このパフォーマンスは作家が滞在中に感じたことの表現のように思います。作品の主題を普遍化して考えると、目隠しが象徴的に示すように、ディスコミュニケーション(意思疎通の不全)なのではないでしょうか。



 さて前回のシロオニスタジオ展覧会のレヴューでも述べましたが、今日の現代美術の状況は、素材的にも技法的にも形式的にも多様で自由な表現にあふれています。それらに共通するアートの存在意義として、「見えるものを通じた見えないものの提示」という定義を示したつもりです。
 なお、このアートの定義「見えるものを通じた見えないものの提示」を裏返してみると、見えるものしか提示しない表現はアートとしては物足りないということになります。表層的なものすべてといっても過言ではありません。見えにくいとは決して言えないようなありきたりなことやものの見方、目を楽しませ感情的な満足をもたらすのみのもの、拡がりを持たない硬直したメッセージ、わかりやすい物語性によって抵抗感なくそこに引き込むもの、定型化して喚起力を失った表現方法──などがそれにあたるでしょう。
 アメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグは、観衆の批評能力を高めるのが前衛芸術の価値であり、それに対して大衆芸術は観衆に瞬間的な楽しみや心の慰めを与えるだけで、批評能力を鈍らせる通俗物であるとして批判しています(註)。ここで言われている前衛芸術をアートと言い換えてもよいかもしれません。もっともその後の大衆芸術のあり方はもっと複雑で、グリーンバーグのいう批評能力が求められる表現もみられることと思います。また大衆芸術には気晴らしや休息という意義があって、それはそれで必要なことともいえましょう。
 注目したいのは両者を分ける決定的な要素が批評能力であるとしていることです。表現方法が多様なアートを、その外観的特徴でアートかアートでないのか区別するのは事実上不可能になっている今日、アートとは何かを判断するうえでとても有効なのではないかと思います。要するにここで言われている批評能力とは、「見えるものを通じた見えないものの提示」に則していえば、「見えるもの」という作品の物理的形態が暗に示す「見えないもの」という意味=概念を“推測”することです。

 アーティスト・イン・レジデンスの参加アーティストは、それぞれ滞在経験を反映させた制作を試みています。異なる文化が自己の意識や制作過程に与える影響について考察したうえで表現される(提示される)「見えないもの」は、人間の自律性は他者との関係のなかで常に揺らいでいるという認識でしょうか。あるいは異文化間の相違点と共通点の検討結果を観衆と共有するための示唆としての作品なのでしょうか。ひとつ思ったのは、作品の物理的形態と、それが誘う「見えないもの」の領域(意味)との間に用意された、ある種の飛躍とも言っていい観衆に課せられた“推測”、それが近道なのかまわり道なのかで、アートとしての成果に差が生じるということです。まわり道の豊かさとは、それがどこへたどり着くのかわからないとしても、いやむしろ、それもあってのことなのではないでしょうか。


(註)クレメント・グリーンバーグ「前衛と通俗物」1939年






# by katatchicafe | 2019-09-03 14:17 | レビュー





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アッツ島のユートピアくん


「アッツ島玉砕」という、戦争を描いた絵があります。
1943年(昭和18年)の発表。縦193.5センチ、横259.5センチの大きなキャンバスに描かれた油絵です。私はこの絵にまつわる、小さな絵を描きました。この絵のことを、もっとよく知らなければならないと思ったのです。この文章は私が「アッツ島玉砕」という絵を理解していく上での覚え書きでもあります。
私の小さな試みに、お付き合いいただけたら幸いです。

絵を描いたのは藤田嗣治(ふじたつぐはる)さんという画家で、発表したその時は56歳。
まずは藤田さんがこの絵を描くまでの道のりを、「年譜」(※1)を見ながら追ってゆきます。

東京美術学校(今の東京藝術大学)を卒業した藤田さんは、27歳(1913・大正2年)でフランスに渡り、そこで第一次世界大戦を経験します。お父さんは軍医さんで、裕福な家の人でしたが、戦争のこの時は仕送りが途絶え、貧しい時代を過ごします。
30代(1916・大正5年~)になって初めて画廊での個展を開き、サロン(大きな美術展覧会)で絵が入選するようになり、35歳(1921・大正10年)の時には絵が高額で売れるようになります。ヨーロッパ各地で個展を開くような人気者の画家になりました。
その頃の藤田さんの絵は、うつくしい白い肌の女性の絵。細い墨色の輪郭線が特徴でした。
ちょっと日本画を思わせるような、日本と西洋の間みたいな表現が人気の秘密かもしれません。
43歳の時(1929・昭和4年)に日本に一時帰国して朝日新聞社や日本橋三越で個展を開いてフランスに戻り、それから二年ほど中南米をめぐる旅に出て、そこの風土や人々や、特にメキシコの壁画に刺激を受けて、藤田さんの描く絵にはパリ時代とは雰囲気が違うものが出てきます。…そしてまた日本へ。
52歳の時(1938・昭和13年)に「海軍省嘱託」(日本の海軍に頼まれた画家さん、ということです)となり、中国を取材します。53歳の時に一時パリに戻りますが翌年にはまた日本へ。今度は陸軍省に頼まれて満州とモンゴルの国境で絵のための取材をします。世界の、日本の、戦争の気配がだんだん濃くなります。
その後の藤田さんは戦争の絵をたくさん描きます。「大日本海洋美術展」、「第二回聖戦美術展」(以上1941・昭和16年)、「第1回大東亜戦争美術展」(1942・昭和17年)、「国民総力決戦美術展」、「第2回大東亜戦争美術展」(以上1943・昭和18年)、「陸軍美術展覧会」(1944・昭和19年)、「戦争記録画展」(1945・昭和20年、敗戦の年)に大きな油絵を出品しています。戦争のためにたくさん展覧会が開かれている時代でした。

最初に紹介した「アッツ島玉砕」の絵は、昭和18年(1943年)の「国民総力決戦美術展」で発表されました。
アッツ島のことを少し調べてみましょう。そしてアッツ島でどんな戦争があったのでしょうか。

アッツ島はアメリカ合衆国のいちばん北にある州のアラスカの海の、その西へ西へとのびるアリューシャン列島という島々の中で、いちばん西にある島です。日本からはいちばん近いアラスカ州の島。
海洋性気候という海沿い独特の気候で、曇りや雨、雪、そして霧が多く、強風が吹くことも多いそうです。ですが夏には晴れる日も多く、一面に無数の草花が咲き乱れ、美しい景色が広がるのだそうです。(日本の兵隊さんとして、アッツ島へ行った方の体験記(※2)から学ぶことが沢山ありました。この方は隣の島のキスカ島へ移って戦うよう命令され、奇跡的に生きて日本へ帰ってこられた方の一人です。)

アッツ島の戦いは昭和18年(1943年)5月12日から5月29日にわたる日本とアメリカとの戦いです。その前の年の6月8日から日本の兵隊さんが島に上陸しはじめました。もともとこの地域に住んでいたのはアリュート人という人たちです。それから退役した軍人さんのアメリカ人の年配ご夫婦が一組。奥さんが先生や看護師の資格があり、島でそれらの仕事をしていたようです。
日本の兵隊さんたちは、その人たちのいつもの暮らしをこわしました。日本はこの島を占領したかったので、日本の兵隊さんたちによってアリュートの人たちは日本の小樽へと抑留(強制的にその場所に留まっているように自由を奪うこと)されました。アッツ島とはずいぶん気候が違うこともあり、抑留された人の半分くらいがそこで亡くなったのだそうです。アメリカ人のご夫婦からは、アメリカの情報を何でも教えてほしいので、教えるように責め立てたのではないかと想像します。ご主人は取り調べ中に自決(死ななければならない責任を感じて自殺)したそうです。奥さんは一緒に自決しようとしたのが出来ずに、その後東京へ連れてゆかれたそうです。

そもそもなぜ日本はそこを占領することになったのでしょうか?
日本とアメリカは戦争をすることになりました。

戦争は、お互いの理想が相容れないとき、どうしてもその理想を実現したいときに起きるものなのでしょうか。アメリカと戦争を始めた日本は、その理想をほぼすべての日本の人とともに大事に思い、アメリカに勝たなければならないと思っていたのでしょう。

アメリカは大きな国です。豊かな国でした。日本はアメリカよりもずいぶん小さな国です。
アメリカに勝つにはどうしたらいいか、と考えていた山本五十六(やまもといそろく)さんという人は、そのような大きな力を持つ国に勝つためには、積極的に攻撃し、なかでも奇襲(相手の不意をついた攻撃)しかない、と強く言いつづけました。アメリカへ留学した経験があり、のちに駐米大使館付武官(大使館に勤める軍事の役人)としてアメリカに滞在したこともある人で、アメリカの車、飛行機、船がどのようにつくられ、実際に使われるまでの流れなどをよく研究し、知っていました。戦争の時は連合艦隊司令長官(外国の海に出ていく大きな軍船すべてをとりまとめるトップの人)という役職にあった人です。日本の国民にもよく知られていました。

山本さんはミッドウェー島という島を攻撃するのがよいと考えていました。アメリカとアジアのちょうど真ん中あたりにあるこの島は、軍事の上でも重要な場所でした。ここの空母を攻撃して滅ぼすことで、アメリカに、アメリカの人たちに、精神的な打撃を与えられると考えていました。
このミッドウェー島を囲む海での戦いがある1年前に、日本の都市に、はじめての空襲がありました。日本の人たちは怖い思いをし、ショックを受けました。山本さんは戦争を長引かせないためにも、相手の不意をついて攻撃していかなければならないという思いを強くしたようです。

その頃に図面の上での軍事研究で、アメリカからの飛行機はまた、北西のアリューシャンの島の方から飛んできて東京へたどり着き、空から攻撃できる、という結果が出ていて、海軍の統率をする海軍部も連合艦隊も、アリューシャン方面への関心を強めていました。ミッドウェー島と同時に、アリューシャン列島を攻め占領するという作戦を立てました。まずアリューシャンを攻めてアメリカの危機感を強めたうえでミッドウェーを不意に攻めれば、多くの軍艦がミッドウェーの海を守りに出てきて、それらを攻撃でき、よりたくさんの軍艦を破壊できると考えたようです。

そうして日本の兵隊さんたちが命じられて、アリューシャン列島の端にあるアッツ島へ上陸し、そこを占領をしました。
そしてアメリカはアッツ島は自分の島だ、ということで、そこで兵隊さんたち同士を戦わせることになりました。
アッツ島は北海道よりもずっとずっと北東にあるところです。小樽でアリュートの人がそうであったように、日本の人はその気候のなかで暮らすのはただでさえ難しい場所です。そのため精神が不安定になり心を病む兵隊さんも多かったそうです。十分な援助も食料も届かずに、苦しい中で戦うことを強いられました。ここで2650人の日本の兵隊さんを指揮したのは、陸軍から部隊長として任命されてきた山崎保代(やまさきやすよ)さんという人でした。
戦うことのできない病気の人、けが人は自決をしました。戦える人もけっして万全ではないぼろぼろの姿で、皆どこかを怪我したりしながら、銃剣だの日本刀だのを持ち、命からがら最後の力で戦ったそうです。山崎部隊長はその最前線で指揮をとり、右手に日本刀を、左手に日の丸の旗を持って、撃たれても撃たれても前へ前へと、アメリカの兵隊さんたちに立ち向かい、「降参せい、降参せい」という呼びかけに応じずに、一団が集中砲火を受けて亡くなりました。その時、普通の日本人にとって、そうして戦うことが何より善でした。
昭和18年(1943年)5月12日から5月29日にわたる戦いでした。

その少し前、同じ年の4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官は、ソロモン諸島のブーゲンビル島(日本のはるか南の赤道より南、ニューギニア島の東のソロモン海の島)で、飛行機での移動中に撃ち落とされて亡くなりました。これはアメリカが山本さんを狙っての作戦(アメリカ軍の付けた名で、直訳すると「復讐作戦」という名がついています)でした。

昭和16(1941年)、アメリカに対して「戦争をはじめます」という宣言をしてから30分後に、ハワイにある真珠湾を攻撃するということになっていました。山本さんの計画です。しかし日本から送ったその暗号の解読に時間がかかり、日本は実質、宣言無しに戦争をはじめたことになりました。アメリカは大きな被害を受けました。それが日本とアメリカの戦争のはじまりです。昭和16(1941年)12月8日(日本時間)の出来事でした。
その約1年4か月後に「復讐作戦」として山本さんが殺され、アッツ島の悲惨な出来事があって、沢山の資料を読んでいた私は、これが終わりのはじまりだと感じました。

そうして亡くなった方がアッツ島ばかりでなく、沢山いました。アリュートの人も、アメリカの人も、沢山亡くなりました。その地にあったふつうの暮らしが、全然違う世界になりました。アリュートの人がアッツ島に帰ることは、今になってさえも出来ずにいます。


ここでもう一度、藤田嗣治さんが描いた絵に話を戻しましょう。
絵の題名は「アッツ島玉砕」。
「玉砕」は、玉(まるい形に磨いた宝石や真珠)が美しく砕けるように、名誉や忠義を大事に思って、いさぎよく死ぬ、という意味です。アッツ島で戦う兵隊さんたちは軍司令部から電文で、「玉砕」という言葉を受け取っていました。兵隊さんたちはアッツ島で亡くなりました。
日本の兵隊さんもアメリカの兵隊さんも入り交じり、入り乱れ、どちらがどちらかも分からぬほどに、戦い、殺し合う、暗い北の島の絵。とても厳しい絵です。山崎保代さんと思われる人が戦っている姿も描かれています。

藤田嗣治という画家さんは、いくつかの違う場所を、世界を、生きました。生きているその世界ごとに、一生懸命に染まっていくような人に、私には思えました。
戦争の時代を、藤田さんは一生懸命に生きているように見えました。戦争画について熱っぽく語った記事も残されています(※3)。
戦争の時代に、画家が戦争画を描くということがどういうことなのか、いま日本が戦争をしていない、というこの時代に生きながら、私が想像することは難しいです。
戦争はしてはいけないことだ、と教えられて育ちました。

私にとっての身近な戦争……私の祖父は戦争へ行きました。
南方へ行って、本当に運よく、健康な体で帰ってこられた人でした。戦争へ行った後遺症なのか、耳が悪く、補聴器を使っていました。
戦友を亡くして、南の島への慰霊旅行に何度か行って、そこのサンゴを家の玄関に飾っていました。読み古された戦争関係の本、特に南方のものが沢山本棚にありました。
認知症が出始めた頃、戦争中の射撃の訓練の話をいきいきとした目で私にも何度も話しました。戦争が祖父の青春時代だったんだな、と感じました。
祖父はこの上なく実直で素朴でもの静かで、ほんとうに愛すべき人でした。
素直でまっすぐな祖父のような人にとって、その時代のただ中で、戦争に勝つことが善だった、と私は今では思うようになりました。

「アッツ島玉砕」は、そういう時代の、まじめでひたむきな絵のひとつだったのではないかと思っています。
フランスでは変わったおかっぱ頭で有名だった人気画家の藤田さんは、戦争中は五分刈り頭になりました。画家の野見山暁二さんがエッセイで、この頃の藤田さんのことを書いています。
「学校で絵を描いていたら誰かが、面白いぞ、と大声をあげながら教室へ入ってきた。今なア、美術館に行って、お賽銭箱に十銭投げるとフジタツグジがお辞儀するぞ。本当だった。隣の美術館でやっている戦争美術展にさっそく行ってみたら、アッツ島玉砕の大画面のわきに筆者の藤田嗣治が直立不動の姿勢でかしこまっていた。当世規定の国民服で、水筒と防毒マスクを左右の肩から交互させて背負っている。~(後略)」(※4)
ぐっとその世界に、自分の方法で一生懸命に入って行ってしまう人だったのではないかと思ったのです。


ある日突然に、紙の端のいたずら書きの体(てい)で、ユートピアくんは生まれました。それは生まれながらに平和を、その身に帯びて放っているように思え、そのときに頭に思い浮かんだのが、この「アッツ島玉砕」の絵でした。
この絵を、平和の絵に描き変えたい。
出来るかぎりで、藤田さんに描かれた兵隊さんたちの居る場所は変わらないようにユートピアくんたちを描きました。
武器は平和の棒に変えました。平和の光を放っています。大砲はちくわぶです。
絵の大きさは実寸の100分の1にしました。その頃にも手に入ったであろう画材を使って描きました。ふすまの紙の鳥の子紙と、鉛筆と、わずかの水彩絵の具。
アッツ島での戦いでそのすこやかさを手放さざるをえなかったすべての存在のために。
戦争画の責任を一身に負うように説得された、とも言われている藤田さん――絵を描いている画家も描き入れました。後ろ姿で絵筆代わりの平和の棒を振るっています。藤田さんは戦後フランスに渡り、キリスト教徒になってレオナール・フジタと名のり、日本に帰ることなく亡くなりました。

「アッツ島玉砕」という、この絵に近づこうと必死になり、多くのことを知りました。
私はあまりにも知らな過ぎました。ここで知ったことの一部をここに記します。

それら、すべての存在のために祈りを。



渡辺渡


※1 『MOMATコレクション 特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。』2015年 国立近代美術館
※2 https://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/1804satou.htm
※3 『美術手帖 第四二四号 特集 戦争と美術―戦争画の史的土壌』「戦爭畫制作の要點」昭和52年9月1日発行 美術出版社
※4 『ユリイカ 8月臨時増刊号 第44巻第8号 総特集=野見山暁二 絵とことば ――きょうも描いて、あしたも描いて、90年。』「戦争画とその後―藤田嗣治」青土社
※ その他多くの事柄でウィキペディアの記事を参照しました。





# by katatchicafe | 2019-09-03 14:14 | 展示

三波石峡




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神流川の上流に三波石峡があります。
三波石と呼ばれる緑色の大きな岩がごろごろとある鬼石の名所です。
波を描くような石の肌。
見渡す限りの三波石が目の前に広がります。



カタチの三波石峡のお菓子。

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川辺に広がる石を思います。



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お店の茶菓子やお土産として時々お出ししています。
ご注文も承ります。

くるみのベースに藤岡産の小麦粉、下仁田産の桑の葉抹茶、
太白ごま油に八塩の鉱泉、甘みは甜菜糖です。


















# by katatchicafe | 2019-08-17 16:37 | お菓子など