2024年 02月 20日
なんなん⁈ART 2月ー3週
日が、ながくなって、今年は急に春がやって来たよう。
近くの池では、きれいな声のかえるが鳴いています。
どうして鳴くのでしょう。
どうして、鳴かずにはおれないのでしょう。
存在のふるえと、そのつづきにありそうな、芸術のお話。
日がながくなると、動物たちは繁殖の季節に入ります。
発情期。
池から、かえるのきれいな声が響いてくるのも、そのせい。
あんまりきれいな鳴き声なので、まねして鳴いてみました。
ヒトの体でその音を再現してみると・・・
腹式呼吸でおなかを震わせて、
声ではなく、
鼻から。
これは、息の「もれ」のようなもの。
ふるえる、
ため息。
ああ、「こいしい」という、その発露なんだ、と感じました。
体の内側からこみ上げるもの。
感情。
あるいは、
そうせずにはおれない、遺伝子のメッセージ。
もしかしたら、宇宙のめぐりの中の必然として、体の中に書き込まれているもの。
それが、体からもれてくる。
その発露。
次のいのちをつないでいくために、
存在がふるえる。
芸術のはじまるところ、その源泉─みなもとがあるのだとしたら、こういうことなのかもしれない、と感じました。
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芸術家と話をしていると、作品のインスピレーションとして、なにかきっかけはあったとしても
「どうしてこういう形になったのか、わからない」だとか、
「私はこういうふうに描かせられただけ」だとか、
「描きながらこうなっていった」とか。
「この絵のタイトルはなんだろう」って思ったときに、
作品や、作品をもたらした「なにものか」と対話をするようなお話もきいたことがあります。
自分自身の考えや、自意識のようなものから作品がうまれるのではなく、
作品は、どこからともなくもたらされ、芸術家はそれをかたちにするための道具というか、依り代のようなものになるのかもしれません。
かえるを鳴かせているのは、なんなのか。
かえるの内から生まれ出でるであろう、次のいのちなのか。
それとも、太古からつづいている遺伝子のなかの、大きな祖霊のようなものなのか。
なんだか怪しげな話に聞こえるかもしれないけれど、あながち否定をすることもできないのかもしれません。
科学は不可思議なことをこれから解明してゆくのかもしれませんし。
目に見えないことが次第に解明されてゆきそうな状況です。
芸術の源泉──いずみの在り処って、
この、「カエルの鳴き声がどこからくるのか」という問いのこたえに近いのかもしれません。
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by katatchicafe
| 2024-02-20 20:21
| なんなん⁈ART
2024年 02月 13日
なんなん⁈ART 2月ー2週
今村源の作品にはよくキノコが登場します。
なぜキノコなのでしょう?
先日、妻が猫と一緒に近くの山でサルノコシカケをとってきました。
(芸術・茶屋 カタチはあじさいの里遊歩道の途中にあります)
キノコはとても種類が多く、サルノコシカケに限っても形、色、大きさ様々です。
サルノコシカケは年々大きくなるので個体差もあります。
そのサルノコシカケは猿が腰かけるにはちょっと小さいくらい(ねずみなら乗れそう)。
こういう言い方はヘンなのですが、まるで作り物みたいで、とてもよくできているなぁと感心してしまったのです。
人にとってのキノコは食材でもありますが、ときに健康を害するばかりか死に至らしめたりもします。
また幻覚作用というかたちで知覚の拡張をもたらすものもあります。
ふと気づくといつの間にか生えているという感も。
生、死、狂気、神秘……。
何やら得体の知れなさもあるキノコの世界。
さて、そんなキノコですが、私たちが通常キノコと呼んでいるのはキノコの一部分です。
実は地下に菌糸が伸びているそうで、そう思うとキノコの全体像ははかり知れないですね。
(地上にあらわれているのは生殖器官に相当します。植物でいえば花でしょうか)
今村作品のキノコたちも実に多様です。
といってもシイタケ、マツタケ、ベニテングタケ……と、いろんな種類のキノコが登場するというわけではありません。
表現のされ方が多様なのです。
小さかったり大きかったり、机の上にあったり高いところにあったり、素材が樹脂だったり和紙だったり針金だったり、ごく抽象的に表現されたり、ポリバケツの切れ込みとしてあらわれたりもします。
またキノコは作品の一部として登場し、キノコだけということはありません。
思うに今村作品のキノコは、各種キノコあるいは個別のキノコというより、「キノコというあり方」なのでしょう。
今村源はキノコというあり方を通して、自身の世界観を象徴的にあらわしているのだと思います。
その世界観が、何物も孤立した存在ではなく、すべてが関係していて、すべてがそのように在る以外にはないような仕合わせのもとに在る──ということかと。
(それはたとえばホンモノそっくりにキノコの彫刻をつくったとしてもあらわせないことなのだと思います)
今村源の芸術は初期のころからそのような、いわばキノコ的世界観で形成されていた気がします。
しかしたとえば作品タイトルにしても《'88-12》といったぐあいに当時はそっけない(ひそやかな)ものでした。
それがキノコと出会うべくして出会い、より鮮やかに世界観があらわされるようになったと考えます。
ですからキノコ的世界観はたとえキノコが登場しなくても、作品に反映されているのだと思います。
関係なさそうなものどうしがどこかでつながりあっている。
見えないところでつながりあっている。
そして作品どうしも同じ空間内で関係しあっている。
そもそも空間内(世界内)にものがあるということは、相互に関係しあっているということなのだと、今村作品は示してくれている気がします。
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by katatchicafe
| 2024-02-13 20:59
| なんなん⁈ART
2024年 02月 06日
なんなん⁈ART 2月ー1週
前回に引き続き、今村源の芸術について。
といっても、作品そのものではなくそのタイトルについてちょっと考えてみたいと思います。
《スベリダイ》、《イエ(ツクエ)》、《イエ(レイゾウコ・ヤカン)》。
どうでしょう、なんかヘンではないですか?
はい、なぜかカタカナ表記です。
《ポリペールⅡ》、《イエ(アンテナ)》。
イエ以外はヘンではありません。
カタカナ表記が普通ですし、そもそもポリペールやアンテナは漢字で表記できません。
《シダ》、《オウムガイ》、《うちのキノコ》。
これもカタカナですがヘンではないです。
漢字で表記できますが、カタカナで表すのにそこまで違和感はありません。
生物名をカタカナで表記するのは、文章中で生物名を明確にするための学術的なルールというか慣習のようです。
ところで、美学者の佐々木健一は「タイトルとは、この作品をしかじかのものとして見よ──という命令」だとしています。
今村が机や冷蔵庫といった生物ではないものを、あえてカタカナでツクエ、レイゾウコと表記するのは、それらを生物種として見ている、見ようとしている、見よといっているのかもしれません。
だとすると《カイテン・つくえ》は机が回っていること、回転という現象をそのような種としてとらえているとも考えられます。
物と事の差異は生きているという次元で解消されるがゆえに《モノになるコト》で、すべての個物が宇宙という大きな「生き物」の一部であると。
個物といえば、《ワケルわたし》、《わたしとシタワ・ユレル》、《ユレルわた止》、《わた死としてのキノコ》と、「私」がいたるところに顔を出します。
「私」は確固たる個人であることを揺さぶられているようです。
でも「私」は孤立した存在ではなく、すべてが関係していて、宇宙の中にあるということなのだと思います。
もちろんこれらがタイトルだけのことではなく、そう見られるのにふさわしいような作品のありようをともなっていてこそなのは言うまでもありません。
ひらがな、カタカナ、漢字など、その表記の仕方によって、タイトルが作品のありようを表しているということです。
《この樹の死たはワタ始ノ器ノコ》
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by katatchicafe
| 2024-02-06 21:18
| なんなん⁈ART
2024年 01月 30日
なんなん⁈ART 1月ー5週
水戸芸術館で開かれていた展覧会『今村源 遅れるものの行方』を観てきました。
今村源の芸術、思うにそれはどんなかというと……、
今村源の作品は、前回のなんなん⁈ARTの座談会のテーマ「芸術を通して私を知ること」で挙がった話の、
「これで、、、、大丈夫なのか・・・?」とちょっと声を掛けてあげたくもなりそうな芸術──です。
今村の芸術は彫刻に分類されますが、私たちが普通イメージする彫刻とはずいぶん違っています。
彫刻はブロンズ像にしても木彫にしても、大きさに関わらずたいていはしっかりとしたかたまりで、安定感のあるものです。
(つまり大丈夫な感じ)
今村の彫刻は主に針金や紙、ビニール、樹脂など重さを感じさせない素材を使用していて、また隙間も多いです。
机や鏡、ポリバケツといった日常目にするものもよく使われます。
ときにはモーターなどによって動くしくみも取り入れられます。
ようするに頼りなげな素材やありふれたもので作られた、ときどきおぼつかない動きをするスカスカした彫刻なのです。
どうでしょう、大丈夫なのかちょっと心配になりませんか?
でも心配になる芸術について、それをよいと感じるのはなんだかヘンです。
ところでわたしたちがいるこの世界、ひとつひとつのものやこと、すべてがそのように在る以外にはないような仕方で存在しています。
(全部が必然ということです)
ということは、世界は現にそのような「仕合わせ」のもとにあるともいえそうです。
(バランスといってもよいでしょう)
考えてみると不思議なことなのですが、しかしその「仕合わせ」にこころ動かされることははたしてどのくらいあるでしょうか。
世界はそのようにあって当たり前なので、意識することはほとんど無いといっても過言ではありません。
大丈夫なのかちょっと心配になる芸術は、普段感じることがまれな、しかし本当はそこに在る世界の「仕合わせ」をあらわしてくれているように思うのです。
「仕合わせ」が当たり前に見えない工夫として、「仕合わせ」がむき出しになるように、安定的な要素(構造や常識、既存の価値観など)を取り除いたりずらしたりしているのではないかと。
その結果、不安定に見えたり、弱そうだったり、これでよいのかと心配になったりしながらも、何だかよいと感じるのだと思います。
今村の芸術に感じる心配は、純粋に感性のレベルで起こることで、利害関係による判断とは種類を異にするものと考えます。
(たとえば美術館の監視員の人が感じるのは、作品保全上の心配の方が大きいのでしょう)
なので心配でありながら喜びであるという、ちょっと特異な情動といえます。
通常の心配と区別して「心配性」とでもしたいところです。
(しんぱいしょうではありません)
「これで、、、、大丈夫なのか・・・?」とちょっと声を掛けてあげたくもなりそうな芸術とは、今村の作品のように「心配性」がある芸術のことです。
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by katatchicafe
| 2024-01-30 21:27
| なんなん⁈ART
2024年 01月 26日
2月のお店カレンダー
2月の店のカレンダーです。
緑色の丸印の日、11日、18日、25日の日曜は、ご予約なしでお越しいただけます。
点線の丸印の日はご予約が必要です。
前日までにご予約をお願いいたします。
印のない日は休みです。
時間は10時から17時までです。
まだまださむい日々ですが、少しずつ日がのびてまいりました。
皆さまどうぞ温かくお過ごしください。
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by katatchicafe
| 2024-01-26 19:00
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