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店について







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感染症の蔓延を受けて以後、店を予約制にいたしました。
自分の尺度に立ち返り、ゆるやかに店を開いてゆくことにいたしました。

訪れる方にも、お気兼ねなくお過ごしいただけるよう、ご利用のお時間は貸し切りとなります。
どうぞご理解の上でのご利用を、よろしくお願いいたします。


ご利用の前日までにご予約をお願いしております。
店へは一度につき四人までお入りいただけます。
毎週水曜日と第三月曜日は定休日です。
詳しくは月ごとのカレンダーをご確認お願いいたします。

また、店に猫がいます。
ご容赦くださいませ。
苦手な方や猫アレルギーの方はご注意ください。
人におくびょうな猫です。なるべく見ないふりをしてあげてください。



メニューは こちらをご覧ください。
お食事は季節ごとの野菜でおつくりしています。
できる限り地元産の野菜を中心に、できる限り無農薬栽培の野菜を使用しています。

お店までの道順はこちらをご覧ください。

ご予約はメール、ショートメール、電話にてお受けします。

メール:katachicafe2005(a)yahoo.co.jp
    katachicafe2005(a)softbank.ne.jp
    
いずれも(a)を@に変えて送信をお願いします。

ショートメールと電話(※):080-3315-1765
(※)セールスのお電話は固くお断りします。


アレルギーや苦手な食材がありましたら、事前にお知らせください。

すべてのお料理、お菓子、お飲み物をヴィーガンでのご提供も承ります。
また、オリエンタルヴィーガン(五葷抜き)対応のお食事もご用意できます。
ご予約の際にお申し付けください。


ご利用の際は必ず前日までにご予約をお願いいたします。
訪れる方が心地よくお過ごしいただけますよう願っております。
何卒ご理解をいただけますように。

どうぞよろしくお願いいたします。











# by katatchicafe | 2023-01-10 10:00 | お店について・鬼石

なんなん⁈ART 3月ー3週




芸術の起源について。

人類史的に考えるもよし。個人史的に考えるもよし。
そんなテーマで、昨日、座談会を開催しました。

今回は話し合いの末、意外ときれいに結論のようなものが導き出せました。
さて、芸術の起源とは?



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芸術の起源って、なんだろう?と考え始めて、見つけた論考。
「チンパンジーの絵から 芸術の起源を考える」

チンパンジーはペンと紙があると、あれこれ試した挙句、紙にペンを当て、線を引き、抽象画のようなものを描くのだそうです。
芸として教え込むために、食べ物をあげるわけではなく、彼らは自主的に線を描くのだそうで、それは、描くことそれ自体が彼らにとって報酬になりえるからだ、とありました。

紙に痕跡がのこる。自分の近くの、ごく小さな世界を変える喜びがあると。
それが「おもしろい」のではないか、と筆者のさいとうあやさんは言います。


芸術の起源として、
これは出典不明ですが、死者に花を手向けたことがはじまりではないか、ということを読んだ覚えがあります。
また、生け花の起源として、仏教徒が暴風で散らされた花をあつめて水おけに入れたという話を岡倉覚三(岡倉天心)が『茶の本』で伝えています。

芸術は社会的な目的をもって表現されてきた歴史があります。
宗教や政治も芸術を利用してきました。

芸術には(よくもわるくもと言ってよいでしょうか)「力」があります。
自分に合った芸術を鑑賞することで、観た人は「力」をもらうような感覚になるのではないか、と。

一方、表現をする側としてはどうでしょうか?
表現することそれ自体が「よろこび」である、ということはあるかもしれません。
先の論考のチンパンジーも、線を引くそのこと自体に「よろこび」を見出しているようです。

またもう一方で、「悲しみの回復」という意図をもってされる表現行為もあります。
先に挙げた死者に花を手向けることや、散らされた花を生けることも同じ表現行為でしょう。
「悲しみの回復」もまた広い意味では「よろこび」になるのではないかと。

芸術には「力」があるとの考えが出ましたが、私たちのこの「なんなん⁈ART」では以前から芸術を「均衡」や「バランス」として考えてきた向きもありました。
マティスが著書『画家のノート』で繰り返し述べていることでもあります。
何かバランスを欠いているところで、その欠いている方の「力」となるように、「力」を入れる。(あるいは添えると言った方がよいときもあるかもしれません。)
そのようにして全体の均衡を整える。
それが芸術の役割のうちのひとつであると。

そのように「バランスをとること」=「表現をすること」で、喜びを得るのです。
それは自分の生きることが増強されること。そのように力が働くこと。
「力」とは、単につよい、ということではなく、わたしという小さないのちの「ちから」が増強されることであると。

そういう働きをする「ちから」について、鈴木大拙は「愛」と説いていたそうです。
でも「愛」…「love」には誤解がつきものです。

これを書いているわたし個人としては、愛という文字に代えて、「相」という文字に共感を寄せています。
「相」は、「おあいこ」の「あい」。
相手に心を寄せて、「ちから」を添える。
いのちに寄り添う「ちから」。


そうして得られた、その「よろこび」。 


# by katatchicafe | 2024-03-19 19:27 | なんなん⁈ART

なんなん⁈ART 3月ー2週




猫を膝にのせて考えた芸術のこと その四

美を感じることは「負ける喜び」なのでしょうか。



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作家の橋本治は「“美しい”と感じることと、“敗北感”はどこかで関係があるのではないか?」と書いています。
「あんまり“美しい”を感じすぎると社会生活が出来にくくなっちゃうから困る」と思っていたそうです。
「美しいがわかる人」は敗者あるいは弱者で、勝者あるいは強者であるには「美しいがわからない」を選択しなければならない、そういう世の中だと。
(「美しいがわかる人」橋本治はそう考えます)

先週、美について、あいての「在るがまま」への共感や理解が勝手に働いてしまってる感じ、と書きました。
「なんだかわからないがよい」の到来に対して、一時的に思考停止になってしまうこと、それは確かに敗北なのかもしれません。
その敗北には二つの面があるように思います。

ひとつは社会で生きる都合上のこと。
思考停止とか何だかわからないとかいった状態は停滞であって、合理的でなく効率も悪いとされるでしょう。
それらが少ない方が優秀な人という印象になりそうです。

もうひとつが思考停止とか何だかわからないとかいった状態そのものが、私たちになんというか到底及ばない「なにか」を感じさせることでしょうか。
「まいったなぁ」とか「かなわんなぁ」とか、「こんな風にあってすごいなぁ」とか「何なんだろう」とか、そういいつつ嬉しいという。
このことは不可避的に人を謙虚にさせることでしょう。
この感じが「美しいがわかる」なのかもしれません。

先週、美を感じることは役に立たない「なにか」に感じる喜び、とも書きました。
人がものごとに心動かされるとき、その理由として、それが自分の役に立つからということがあります。
あるいは反対に、それが自分にとって不利益をもたらすかもしれないということもあります。
つまり利害的興味関心です。
自分に利益をもたらすものと不利益をもたらすものとで世の中のものごとを仕分けしたとしたら、役に立たない「なにか」とはそのどちらでもないものです。
つまり利害的興味関心から外れている。
(これが橋本治のいう「美しいがわからない」でしょうか)
利害とは別に働く興味関心、それが美なのだと思います。






# by katatchicafe | 2024-03-12 20:22 | なんなん⁈ART

なんなん⁈ART 3月ー1週



猫を膝にのせて考えた芸術のこと その三

芸術の種=美=負ける喜び?




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芸術の種、その中心にあるのは、役に立たない「なにか」に感じる喜び。
で、その喜びを「美」といえば、たぶんそうなのだと思います。
たとえば夕日がきれいだなぁと感じたとき、そこには喜びがあります。
でも、それが直接自分にとって何かの役に立つわけではありません。
もちろん太陽の存在が生命にとって必要不可欠で、だから役に立っているのだ、ということはできるでしょう。
ですが、だからといって夕日のそのありようにしみじみとしたりすることは、はたして生命維持になくてはならないものなのでしょうか。

猫をなんかよいなぁと感じること、それはいったい何の役に?
ネズミを捕ることは、そもそもの猫と人間との共存の一因だったかもしれませんが、いまはどうでしょう。
(捕ってこられて困る場合の方が多いかもしれません)
日頃のストレスを癒してくれるのはありそうです。
猫の動画をSNS にあげると閲覧数を稼げるとか。
でも、よほど自分本位でないかぎり、ストレス軽減や注目を集めることといった「効果」だけを目的に猫と一緒にいるわけではないでしょう。

ひとついえるのは猫にしろ夕日にしろ、こちらのために「よく」あるのではないということです。
それはあいての都合でそのように在るのです。
それを「よい」と感じるということは、そのあいての「在るがまま」への共感、理解、推察が働いている、いやむしろ働いてしまっているといった方がよいでしょうか。

あいての都合への理解、他者の基準の発見がすなわち「美」だとすれば、それは自分の都合、こちらの役に立つかどうかという判断とくらべて、はなはだわかりにくい、こころもとないものです。
「なんだかわからないがよい」がまずやってきてしまって、なぜよいのかの判断に時間がかかる、というかわからないままだったり。
美はどうしようもなくとらえられてしまうもの。
そこで思うのは、美を感じるとは「負ける喜び」みたいなものかもしれない、ということです。

# by katatchicafe | 2024-03-05 19:58 | なんなん⁈ART



猫を膝にのせて考えた芸術のこと その二

猫が膝にのってきます。
隙をついてのってきます。
隙がなくてものってきます。
(のせて、と言ってきます)



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そんなときたいていこちらは「まいったなぁ」という顔をしています。
「まいったなぁ」という顔をしているからといって、本当にまいっているとはかぎりません。
顔ではまいっていても、本当は嬉しかったりします。
でも、「やったぁ、のってくれたぁ!」と膝を叩いて喜ぶ、というのとも違います。
「やったぁ、のってくれたぁ!」は猫を膝にのせるという目的があって、それが達成された喜びでしょう。
「まいったなぁ」の喜びは不意打ちのようなものです。
もちろん、猫が膝にのるのはしょっちゅうなので意外なわけではありません。
といってもいつのるのかは猫都合なのであって、こちらの都合ではないのです。

なんというか、猫が膝にのっているという状況について、猫と(私の)膝が協働して生み出している、みたいな。
そこに自分の都合(目的)で解釈できない「なにか」を感じるわけです。
のりたい猫とのせたい膝の間にある「なにか」。
それを喜びと感じる「こころ」。
そんなこと感じなくてもよい、といえばよいのです。
猫をひざにのせていることに時間をとられていては損だと。
ですが、その役に立たない「なにか」に喜びがある以上、感じた方が「こころ」によいのです。

芸術の種がそこにある気がします。






# by katatchicafe | 2024-02-27 22:07 | なんなん⁈ART






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ホワイトチョコレートのケーキ。
苺と自家炊きの白あんがよい相性です。



# by katatchicafe | 2024-02-25 18:15 | お菓子など