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 それは展示というにはあまりにもひそやかに存在していました。


 会場である十一屋を訪れて案内図を見た人ならまだしも、何気なく巡回したのであればその目にふれぬままになってしまったかもしれません。はたして作品は屋外の、それもトチの木のウロにあったのです。遠目にはただのトチの木です。見慣れた人にはいつもの風景だったことでしょう。近づいたとしてもウロに注意が向かわなければやはり変哲ないトチの木です。しかし運よくといいますか、いくばくかの好奇心が功を奏してひとたびウロの中をのぞいたならば、その作品はいかにも慎ましやかにポエジーを湛えて観る者を迎えたに違いありません。


 葉書よりやや大きめのサイズの紙の上に、トチの実がふたつ縦に並んでいます。ひとつは実物のトチの実で、もうひとつはそれを精細に描いた絵のトチの実です。思わずその緻密な描写に目を奪われてしまいますが、錯覚を意図したわけでも、ましてや技術の誇示でもありません。そうだとしたら展示期間中(9日間)ずっと屋外にあって風雨にさらされ、徐々に劣化することとのあいだに齟齬をきたします。


 ではいったい何故このような作品となったのでしょうか。思うに祈り/儀式の類、それも感謝のためなのではないかと。何についての感謝なのか考えてみることとします。まずトチの実についてですが、じつは今年実ったものではなく、昨年の同じ時季に作家がここで拾ったものです。つまり一年たって再びここへ来られたこと、今年もまたトチの木が存在していたことへの感謝を示すために、それを木に返すという試みなのです。あるいは奉ずるといってもよいかもしれません。ですからその存在の“有り難さ”をおろそかにしないためにも、それをそのまま、時間をかけて念入りに描く必要があるのです。縁あって手元にある、ここでいう存在とはあくまで個人的でかけがえのないものです。そういう意味での存在を大事にするのですから、一般化された名詞的なトチの実を説明として描くのではなく、一個体としてのトチの実を、言うならば固有名詞的に描くわけです。換言すれば存在の肯定であって、その存在に対して礼を失することのないようにふるまった結果なのです。このような制作態度こそが、個人的な感謝の念に端を発していながらも、作品を存在そのものに対する畏怖・尊崇へと昇華させるのです。屋外に置かれて風化することもこれは自然の理であって、そのことを尊重している、その物の在り様を認める行為といえます。時間をかけて描くことと、時間をかけて風化することとは、祈り/儀式として何ら違わないのかもしれません。


 ところで作家のこのような自然環境へのかかわり方から、いわゆるランドアートを想起する向きもありましょう。ひとくくりにはできませんがランドアートの側面として、美術館というホワイトキューブから自然という外部へ、作品の不変性が半ば前提とされていることに対して、エントロピーの増大という紛れもない実態を提示するという点が挙げられます。では渡辺渡の芸術はといいますと、こうしたアンチミュージアム的な身振りとは無縁です。むしろこの作品の形が最も主題に忠実なあり方で、自然環境を舞台とすることは不可避だったという言い方が適切でしょう。自然は手段として採用されているのではなく、積極的肯定の対象なのです。というとランドアートの中でもエコロジカルな要素の強い自然派傾向の作家とは親和性がありそうですが、創作の契機ということを考慮すると、やはり普遍性を志向している点で、個別性を重んじる渡辺とは芸術観の基底部分における違いがあると思います。


 また、サイトスペシフィックというランドアートが論じられるおりにしばしば登場する美術用語についても、同じく想起されるかもしれません。なるほど確かにその場所に固有の表現ではあります。では表現としてのサイトスペシフィックを、場所の文脈に依拠する方法と、場所を異化する方法とに大別して、あてはめて考えてみましょう。前者においては、古い造り酒屋跡地の古木という大いに物語性に富んでいる場ではありますが、その記憶を掘りおこすあるいは導入するということは主眼とされていません。場所の記憶ではなく個人の記憶を、縁という関係性で場=作品につなげているのです。後者は風景を一変させる、つまり場所の見え方を変えるということですが、それにしてはかなりひそやか過ぎていて、むしろあまり変えないようにしているといっていいくらいです。それも当然で、そのままの存在を肯定することが主題である以上、表現として饒舌である必要はなく、作為性は忌避されるべきものなのです。渡辺の作品におけるサイトスペシフィックとは、場所の文脈に依拠せず、場所を異化しない、言うならば場所の内面化であって、その場所とは存在に対する感謝の儀式の場所のことなのです。


 儀式という語彙は宗教を連想させますが、作家が己の芸術を鍛える過程で通過することはあったとしても、特定の宗教や文化コードと結びつけることは、渡辺の芸術を考える場合得策とはいえないでしょう。むしろ多くの宗教の根元に通底している、原初的な祈りのようなものに近いのではないかと思われます。原初的とは宗教的象徴体系前ということでもあって、トチの実は何かの象徴として召喚されたわけではなく(もちろん寓意でもなく)、ただトチの実として“在る”のです。トチの実はその存在を肯定されながら丁寧に描かれ、やがてゆっくりと自然に返るのです。だからといって自然主義/写実主義なのかというとそれも違います。写実は結果そうなのであって、極論すれば今後同じ命題を別の方法で表現する可能性すらあるのだと思います。象徴や寓意に頼ることなく、存在の有り難さをひたすら見つめながら一筆一筆それを写し取ってゆく行為とその消尽。それらが一連の儀式となることで、そこに込められた存在への感謝が、崇高さ/聖性として立ち現われるのです。それをじっくりと待つことこそポエジーでありましょう。これはレトリックなきポエジーという鋭意なのです。






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# by katatchicafe | 2017-11-23 17:53 | レビュー





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 シロオニスタジオ展覧会は数か国から集ったアーティストたちが約6週間鬼石に滞在、制作した成果を発表する場です。各々が抱いている芸術テーマを滞在中に掘り下げていくことで、そこでしか生まれえぬ表現になります。といっても体験したことだけでなく、他のアーティストに触発されることもあるでしょうし、そもそも日本への関心も各様なので、これまでに鍛えられてきたその芸術と滞在したことで得たものとの間でどれだけ化学変化を起こせるかが、アーティスト・イン・レジデンスを意義深いものにするために必要です。


 今期の展覧会は「かんな秋のアートまつり」と同時開催ということで、レジデンス参加アーティスト以外の作品も一緒に展示されていたので、来訪者の視点によるこの地でしか生まれえぬ表現というその特異性がいつも以上に表れていたように思います。これは偶然かもしれませんがレジデンス参加アーティストの作品は概ね色彩感覚が抑制的でした。元々の日本への関心領域がそうさせる部分もあるのでしょうが、結果的に静かに精神性を問うような作品がそろったのは興味深いことです。



 個別にみていくと、ラクエル・アルガバ・ロペスの作品は黒と白のまさにモノクロームの世界で、鬼石で古い碁盤と出会ったことから、囲碁という格好のモチーフを得たかたちになりました。そこに見出したのは自己との戦い―自分を見つめるという姿勢であり、また生死を考える契機でもあります。


 一方そのような自己探求の精神を合気道から授かったマリット・シリン・フォーゲルグレンはダンスと融合させた独自のパフォーマンスを発表。肉体と精神を弁別せずにインスピレーションによる運動を重視するスタイルは座禅/瞑想からくるのでしょう。動と静の一体化も指向していて、動くことで静寂を表現したともいえます。それは後述するジョシュ・バーソンと塩脇来実の展示空間で行ったパフォーマンスについても同様で、相乗作用を発揮していました。合気道パフォーマンスが道着の印象もあってそのイメージが黒なのに対して、こちらは光の効果で白だというも面白いところです。


 マーガレット・ランシンク&ルネ・ヴァン・ハルストは日本の別の精神に関心を抱きました。それはおもいやりとでもいうべきものです。70年以上前の日本とオランダの領事館の協力によるユダヤ人救出の史実に基づいて、そういう心の美しさを、アナログ感覚の強いモノクロ写真と詩的言語を通して訴えていて、そこにはこの地で感じたおもいやりと、ひとりひとりがそうした行動をとれる世界であるようにという願いも込められていたに違いありません。それは人が人らしくあるということなのかもしれません。


 その大切さをスー・アン・リッシェは私的領域が守られるということにみたようです。今日最も危機にさらされていることのひとつでしょうし、またそのことに鈍感になってもいます。そこで、プライバシー保護の類比表現、顔を覆い隠すアイテムとして うちわが何種類も制作されました。そのうちわには写真を撮られることの対策として反射テープが貼られる一方、自我を失うということについての書が配されており(例えば「我執は流れ去る」)、私的領域そのものを相対化する視点も感じさせます。見られないためのものを作品という見るためのものとして提示するというしくみもまた一種の相対化で、多様な在り方を示すのは芸術の本性(ほんせい)のひとつです。


 ジョシュ・バーソンの作品にもそのような多様性が表れています。この地で採集、解析、再構成された音響彫刻ともいうべきサウンド・インスタレーションは、私たちのまわりをとりかこむ音について別の可能性を暗示するものです。またゆっくりと聴くことで客観的に音と対峙することにもなります。
同じ空間にはシロオニスタジオ・スタッフでもある塩脇来実による光のインスタレーションがあり、音と光に心身をゆだねることによって瞑想時間がうまれていました。露が付いて光を集めた蜘蛛の巣をイメージしたそれも音響同様に洗練されておりコラボレーションたりえていました。


 レキシー・ツェンもプロジェクション作品を制作。古い棚にこの地で撮影した映像を投映していました。古いもの(古家具)と新しいもの(プロジェクション)の対比は、同時に歴史をまとったものと、新たに撮られたものの対比でもあるのでしょうが、運動場を撮影した肝心の映像が十分に企図と合ってはいなかったように思えました。映像自体はこなれていただけに少々残念なところです。


 シロオニスタジオ・スタッフでもある松村要二は自らの仕事場を展示としていました。といってもただアトリエを公開したというのではなく、障子の空いた空間から中を垣間見るしくみになっていて、それはこの地におけるこれまでの時間の蓄積を可視化させる装置であり、アーティスト・イン・レジデンスそのものが作品になったといえるかもしれません。


 シロオニスタジオのディレクターでもあるキール・ハーンは茶室の内装に仙厓の書から着想した白と黒の意匠をほどこして、空間の様相に変化を与えました。しかし茶室はこれで完成ということではなく、あくまで過渡の姿のようです。アーティスト・イン・レジデンス主宰者の視線は滞在制作の先の未来に向けられています。


  渡辺嘉達






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# by katatchicafe | 2017-10-16 11:44 | レビュー

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# by katatchicafe | 2017-10-10 10:05 | 空間

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# by katatchicafe | 2017-10-07 10:05 | 空間

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# by katatchicafe | 2017-01-16 00:00 | 空間